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滯英日記 >> スカーバラ(2)

スカーバラ Scarborough

ホテルに戻ると、荷物は無事だった。机の影からすばやく回収してチェックインを済ませる。
あてがわれた部屋は狭く埃っぽかったが、窓からは遠く入り江を隔ててスカーバラ城の廃墟が見えた。海岸線に沿って城壁が長く続いている。
それにしても窓にかかっているのが厚手のカーテン一枚きりで、レースのカーテンがないのは困りものである。外からの視線をさえぎるために、部屋にいる間は常にカーテンを閉めておかなければならない。
とりあえず一息つこうかとお湯を沸かし、紅茶を入れた。が、一口飲んだ瞬間、脂肪の味を感じて反射的に吐き出した。ミルクは入れていない。ということは……。
カップをよく見ると飲み口に汚れが残っている。最悪だ。吐き気をこらえながら飲みさしの紅茶を捨てた。このホテルにだけは二度と泊まるものかと思う。

気分を変えるために散歩に出た。
とりあえずお城を目指すことにする。入場時間は過ぎているが明日のために場所を確認しておくのも悪くない。
西日の差すスカーバラのメインストリートを歩く。「城」の表示にしたがって左に折れ、急な坂を上がると、さらに階段がある。息を切らしながら昇りきると聖メアリ教会の前に出た。

■アン・ブロンテの墓 The grave of Anne Brontë

聖メアリ教会の西の入り口両脇にはエドワード三世と王妃フィリパ・オブ・エノーの彫像がある。王は鼻が欠けているし、王妃に至っては原型を留めないほど擦り切れてかわいそうなことになっている。

 

フィリパ・オブ・エノー

 

エドワード3世 

教会の前には墓地が広がる。道一本挟んだところにブロンテ三姉妹の末っ子アン・ブロンテの墓があった。

1849年2月、病に冒されたアンはスカーバラでの転地療法を望んだ。姉のシャーロットとその親友エレン・ナッシーが同行し故郷のハワースを旅立ったのが5月24日。その日はヨークに一泊しヨークミンスターを見学した。車椅子に乗ったアンは旅を楽しんでいるようだったという。
しかしスカーバラ到着からわずか三日後の5月28日、アンはシャーロットとエレンに見守られながら引き取る。29歳の若さだった。
1848年から1849年にかけての二年間はブロンテ家に次々と悲劇が襲いかかった年で、すでに前年の9月に長男のブランウェルが、12月に三姉妹の真ん中のエミリが相次いで亡くなっていた。シャーロットは老いた父にかかる負担と心痛を考えて、スカーバラでアンの葬儀と埋葬を済ませることを決める。それはまたアン自身の希望でもあった。

アンの墓は1996年に買った『図説 「ジェイン・エア」と「嵐が丘」』で見知っていたが、その写真に比べるとずいぶんと墓石前面の傷みが目立つ。写真では「Anne Brontë」の名前がほぼ完璧に読めたのだが、今目の前にある実物はところどころが欠けて文字の判別が難しい所も多い。かつて墓の前にしつらえてあった花壇もない。しかし、いわば「無縁仏」であるにもかかわらずきれいに掃除されているのはアンの人徳か、土地の人々の優しさであろうか。

お墓の前からはスカーバラの町と海がよく見えた。シャーロットやアンには海への強い憧れがあったという。
知らない世界へ向かってどこまでも開けている海辺の町。内陸で鬱屈しながら育った私にも、この開放感に惹かれる気持ちは分かるような気がする。

■スカーバラ城 Scarborough Castle

聖メアリ教会の北側の道に出て右に少し歩くと、城へつづく坂道が現れる。
城の周囲には散歩道が設けられていた。カップルが散歩道に座り込んで愛を語らっている(多分)。彼らの後ろには崩れかけた城壁、その向こうに広がる海岸線。

やっとスカボロー・フェアの雰囲気になってきた。パセリ、セージ、ローズマリーにタイムはないがアザミや昼顔や名も知らぬ花々が咲いている。

中世のスカーバラは一大交易地であり、スカボロー・フェアに歌われているように、8月15日から45日間に渡って開催される市(フェア)で知られていた。スカーバラの市にはイングランドはもとよりヨーロッパ各国、遠くはビザンツ帝国からも商人や見物客が集まり、吟遊詩人や大道芸人が芸を競ったという。この市はしかし13世紀の後半には衰退をはじめ、1788年を最後に完全に途絶えた。
その後、鉱泉の発見によりスカーバラは保養地として再出発し、現在も夏になるとリゾート客で賑わうそうだが、季節のせいだろうか、私は今のスカーバラの町にもどこか盛りのすぎた匂いを嗅ぎ取った。

城から町へと降りていく間、犬を連れた人に何人もすれ違った。シェルティーを三頭つれた男性がいて、教会の庭で遊ばせている。三頭のうちの一頭がむかし私が飼っていたシェルティーとよく似た色をしていて、思わず目で追っていると、その犬が墓におしっこをかけていた。
裏通りで出会った猫は私が写真を撮る間ポーズを取ってくれた。撮り終えて「目線ありがとうございます」というと、面倒臭そうに背中を向けて去って行った。

■サウス・ベイ South Bay

 

ホテルの前の階段を降りて、砂浜に出てみた。このホテルも海岸から見上げると立派なのだが……。
北海を前にした時、どこかで、多分画かなにかで見たことがあるような色をしていると思った。灰色と青と茶色と緑色が複雑に入り混じった暗鬱な色合い。水平線は淡く滲んで空と一体になっている。
波打ち際をじっと見ていると引き込まれそうになった。

「海水と砂浜の間に1エーカーの土地を見つけてくれたなら その時こそあの人はまことの恋人」

スカーバラの記念に貝殻を探したが、めぼしいものはみつからなかった。ただ頭上を飛び交うカモメの羽根だけがやたらと落ちて泥にまみれていた。その上にも波がひっきりなしに打ち寄せる。なんだか寂しくなった。
日が翳る中、帰ろうとして振り返ると、対岸の城壁にだけ夕陽が当たって明るく照り映えていた。



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