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滯英日記 >> レスター(2)

■レスター城址 Leicester Castle

ギルドホールを出た後は、城のほうへ向かった。といっても城は現存しておらず、現在のキャッスル・パーク、De Monfort大学を含む広大な敷地の中に遺構がぽつぽつ残っている程度。De Monfortはデ・モンフォートと読むのかドゥ・モンフォールと読むのか分からないが「シモン・ド・モンフォールの乱」のあのMonfortである。彼は第6代レスター伯であった。

レスター城はランカスター公家とゆかりが深い。
現在Newarkeと呼ばれている一帯は初代ランカスター公ヘンリー・オブ・グロウモントによって整備・拡大された。ヘンリー・オブ・グロウモントの娘ブランシュと結婚したのがエドワード三世の三男ジョン・オブ・ゴーントである。この結婚により彼はランカスター公の称号と領地を得た。

■門楼 Magazine Gateway

大学の構内に所在なさげに建っている。建造当時はNewarke Gatewayと呼ばれていて、レスター城へのメインエントランスだった。ぴかぴかの校舎が立ち並ぶ今の様子からは想像が難しいが、この門から続く城壁が城を取り囲んでいたということだ。
Magazine Gatewayと呼ばれるようになったのはイングランド内戦以後。その頃は弾薬庫として使われていた。それ以前には牢獄だった時期もある(1560年代)という。

余談だがこの門の前で「変な外人」と大書きされたTシャツを着ている若者を見た。すごく突っ込みたかったが、ここでは私が変な外人なのであった。

■ニューワーク・ハウス・ミュージアム Newarke House Museum

レスターの市民生活を紹介する博物館で、昔の商店を再現した一画があったりして楽しい。しかし、博物館でもっとも人気があるのはダニエル・ランバート君という実在したデブ青年についての展示だそうで、彼の服や靴下などが飾られている。もっと他に有名人はいないのか。
二階には第二次世界大戦コーナーがあり、日本の捕虜収容所で虐待を受けた人の談話などもあってたいへん居心地が悪かった。

■トリニティー・ホスピタル Trinity Hospital

Newarke House Museumの並びにある。もとはレスター伯ヘンリー・オブ・ランカスターによって1331年に建てられた施療院。ただし建物の大部分は建造当時のものではない。De Monfort大学の所有になっているらしく、内部が見学できるのかどうかは分からなかった。

トリニティー・ホスピタルの南側にはかつてThe Collegiate Church of the Annunciation of St. Maryという教会があった。ヘンリー・オブ・グロウモントが一族の墓所にするために建てた教会である。しかしヘンリー・オブ・グロウモントの男系子孫が絶えた影響もあってか、ランカスター家の菩提寺として使われることはなかった。
(このあたりの事情は秋津羽さんの白い猪亭 真実のリチャードを探して コンスタンス・オブ・カスティルはどこにいるのか?に詳しい)

ここに葬られた可能性があるのが、ジョン・オブ・ゴーントの二度目の妻コンスタンス・オブ・カスティル、そしてヘンリー4世(ジョン・オブ・ゴーントとブランシュの息子)の最初の妻でヘンリー5世らを産んだメアリ・ド・ブーンである。
教会は宗教改革の煽りを受けてエドワード6世の時代に解散させられ、建物も取り壊された。
この時にかどうか分からないが、メアリ・ド・ブーンの墓はトリニティー・ホスピタル内の礼拝堂に移されたらしい。しかし、コンスタンス・オブ・カスティルの墓の行方については不明。教会と一緒に取り壊されたのかもしれないし、メアリ・ド・ブーンと一緒にトリニティー・ホスピタルに移されたのかもしれない。

なぜコンスタンス・オブ・カスティルにこだわるのかというと、彼女がカスティーリャのイサベル女王の、ひいてはフアナ女王やキャサリン・オブ・アラゴンの直接の先祖だからだ(イサベル女王とフアナ女王については2005年のスペイン旅行で追いかけた)。

コンスタンス・オブ・カスティルはカスティーリャのペドロ1世とマリア・デ・パディーリャの次女である。父が庶兄エンリケ・デ・トラスタマラに敗れた後、父の同盟者であったエドワード黒太子を頼り、イングランドの庇護下に入る。1371年に黒太子の弟であるジョン・オブ・ゴーントと結婚。ジョン・オブ・ゴーントは二年前に妻ブランシュを亡くしてやもめになっていた。
ジョン・オブ・ゴーントは、かつてブランシュ・オブ・ランカスターの権利によってランカスター公位を得たように、今度はコンスタンスの権利によってカスティーリャ王位を要求したが、それは実らなかった。最終的には、ジョン・オブ・ゴーントとコンスタンスの娘キャサリンが、エンリケ・デ・トラスタマラの孫にあたるエンリケ王太子に嫁ぐことで、カスティーリャ継承問題には一応の決着がつく。
カスティーリャに還ったコンスタンスの血は、やがてプランタジネットの末裔の王女として英国に戻ってくる。アーサー王太子の、つづいてヘンリー八世の妃となったキャサリン・オブ・アラゴンである。
コンスタンスは1394年3月24日、レスター城で亡くなった。


トリニティ・ホスピタルとニューワーク・ハウス・ミュージアムの間にある細い道を進むと、Turret Gatewayと呼ばれる城の南門がある。これをくぐると、右手に聖メアリー・デ・カストロ教会、左手に小さな庭に囲まれたキャッスル・ハウスが見える。かつての城の面影をもっとも色濃く残しているのがこの一帯ではないかと思う。

■キャッスル・ハウス Castle House

レスター城のわずかに残る痕跡がここ。12世紀建造の大広間(といっても16世紀に大々的に改修されているらしい)だったグレイト・ホールがかろうじて残っている。公開は毎月第一土曜のみとのこと。また、地下には「ジョン・オブ・ゴーントの地下室」と呼ばれる貯蔵庫が残っているという。


キャッスル・ハウスに隣接する塀の向こうにはmotteと呼ばれる11世紀当時の土塁が残っているが近づくことはできない。塀のこちら側から覗いた限りでは、草ぼうぼうでほとんど管理はされていないように見えた。



塀の向こうで木が繁っている箇所がmotte

 

motteそばのハーブ園(奥の建物はトリニティ・ホスピタル)




■聖メアリ・デ・カストロ教会 Church of St.Mary de Castro

残念ながら開いておらず内部見学はできなかった。
De Castroというラテン風の名前から、スペイン生まれの公妃と何か関わりがあるのではないかと思っていたのだが、それはまったくの見当違いで、単にラテン語由来の「城附属の」という意味であった。教会の歴史は古く創建は12世紀にさかのぼる。
確実ではないようだが、英詩の父と称されるジェフリー・チョーサーと妻フィリパ・ド・ローエが結婚したのがここだとか、ジョン・オブ・ゴーントが長年の愛人だったキャサリン・スウィンフォードを三人目の妻としたのもここだとか言われている。キャサリン・スウィンフォードはフィリパ・ド・ローエの実妹なので、チョーサーとジョン・オブ・ゴーントは義兄弟ということになる。
もっとも、キャサリン・スウィンフォードを主人公にした小説『緑は愛の色 ランカスター公爵夫人の書―キャサリンの愛と苦悩の物語』(アニヤ・セットン著)の訳者で中世英文学の専門家である佐藤勉によると、チョーサー夫妻はキャサリン・スウィンフォードとジョン・オブ・ゴーントの関係には批判的で、むしろコンスタンス・オブ・カスティルに同情的だったという。フィリパ・ド・ローエはコンスタンスの侍女でもあった。


■キャッスルゲート Castle Gate

そのまま道なりに向かうとゲートハウスの下をくぐる形になる。衛兵の詰め所だったのだろう。レスター城と聖メアリ・デ・カストロを繋ぐように建っている。


キャッスルゲートをくぐってから振り返った所。

キャッスルゲートの外側には市が設置した銘板があった。

この銘板は、500年前、レスターの人々が、二日の間に二人のイングランド王を歓迎し、敬意を表したことを記念するものである

リチャード3世
1485年8月21日 王冠をかけた戦いに赴いた日に

そして
ヘンリー7世
1485年8月22日 マーケット・ボズワース付近での戦場から、打ち破られたリチャード3世の遺体を携えて到着した日に




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