■レスター城址 Leicester Castleギルドホールを出た後は、城のほうへ向かった。といっても城は現存しておらず、現在のキャッスル・パーク、De Monfort大学を含む広大な敷地の中に遺構がぽつぽつ残っている程度。De
Monfortはデ・モンフォートと読むのかドゥ・モンフォールと読むのか分からないが「シモン・ド・モンフォールの乱」のあのMonfortである。彼は第6代レスター伯であった。 ■門楼 Magazine Gateway大学の構内に所在なさげに建っている。建造当時はNewarke Gatewayと呼ばれていて、レスター城へのメインエントランスだった。ぴかぴかの校舎が立ち並ぶ今の様子からは想像が難しいが、この門から続く城壁が城を取り囲んでいたということだ。 ■ニューワーク・ハウス・ミュージアム Newarke House Museumレスターの市民生活を紹介する博物館で、昔の商店を再現した一画があったりして楽しい。しかし、博物館でもっとも人気があるのはダニエル・ランバート君という実在したデブ青年についての展示だそうで、彼の服や靴下などが飾られている。もっと他に有名人はいないのか。 ■トリニティー・ホスピタル Trinity HospitalNewarke House Museumの並びにある。もとはレスター伯ヘンリー・オブ・ランカスターによって1331年に建てられた施療院。ただし建物の大部分は建造当時のものではない。De
Monfort大学の所有になっているらしく、内部が見学できるのかどうかは分からなかった。 トリニティ・ホスピタルとニューワーク・ハウス・ミュージアムの間にある細い道を進むと、Turret Gatewayと呼ばれる城の南門がある。これをくぐると、右手に聖メアリー・デ・カストロ教会、左手に小さな庭に囲まれたキャッスル・ハウスが見える。かつての城の面影をもっとも色濃く残しているのがこの一帯ではないかと思う。 ■キャッスル・ハウス Castle Houseレスター城のわずかに残る痕跡がここ。12世紀建造の大広間(といっても16世紀に大々的に改修されているらしい)だったグレイト・ホールがかろうじて残っている。公開は毎月第一土曜のみとのこと。また、地下には「ジョン・オブ・ゴーントの地下室」と呼ばれる貯蔵庫が残っているという。 キャッスル・ハウスに隣接する塀の向こうにはmotteと呼ばれる11世紀当時の土塁が残っているが近づくことはできない。塀のこちら側から覗いた限りでは、草ぼうぼうでほとんど管理はされていないように見えた。
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残念ながら開いておらず内部見学はできなかった。
De Castroというラテン風の名前から、スペイン生まれの公妃と何か関わりがあるのではないかと思っていたのだが、それはまったくの見当違いで、単にラテン語由来の「城附属の」という意味であった。教会の歴史は古く創建は12世紀にさかのぼる。
確実ではないようだが、英詩の父と称されるジェフリー・チョーサーと妻フィリパ・ド・ローエが結婚したのがここだとか、ジョン・オブ・ゴーントが長年の愛人だったキャサリン・スウィンフォードを三人目の妻としたのもここだとか言われている。キャサリン・スウィンフォードはフィリパ・ド・ローエの実妹なので、チョーサーとジョン・オブ・ゴーントは義兄弟ということになる。
もっとも、キャサリン・スウィンフォードを主人公にした小説『緑は愛の色 ランカスター公爵夫人の書―キャサリンの愛と苦悩の物語』(アニヤ・セットン著)の訳者で中世英文学の専門家である佐藤勉によると、チョーサー夫妻はキャサリン・スウィンフォードとジョン・オブ・ゴーントの関係には批判的で、むしろコンスタンス・オブ・カスティルに同情的だったという。フィリパ・ド・ローエはコンスタンスの侍女でもあった。
そのまま道なりに向かうとゲートハウスの下をくぐる形になる。衛兵の詰め所だったのだろう。レスター城と聖メアリ・デ・カストロを繋ぐように建っている。
キャッスルゲートをくぐってから振り返った所。 |
キャッスルゲートの外側には市が設置した銘板があった。
この銘板は、500年前、レスターの人々が、二日の間に二人のイングランド王を歓迎し、敬意を表したことを記念するものである
リチャード3世
1485年8月21日 王冠をかけた戦いに赴いた日に
そして
ヘンリー7世
1485年8月22日 マーケット・ボズワース付近での戦場から、打ち破られたリチャード3世の遺体を携えて到着した日に
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