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滯英日記 >> キングス・ラングリー(2)

2011.9.24(土)

キングス・ラングリー Kings Langley

朝食も食べずホテルを出て、8時4分発のキングスラングリー行きに乗った。祈るような気持ちで教会へ急ぐ。地元の人たちと挨拶を交わしながら緑豊かなフットパスを抜け、9時10分前に教会へ到着。ちょうど牧師さんらしき人が入り口の鍵を開けているところだった。
「すいませんっ ヨーク公のお墓を見に来たんですけど、ちょっと見学してもいいですかね!?」
息せき切って尋ねると「どうぞどうぞ、その奥ですよ」と指し示してくれた。
初代ヨーク公エドマンド・オブ・ラングリーと公妃イザベル・オブ・カスティルの棺は、主祭壇の左手に安置されていた。いたってシンプルな形状のものだが、前面にはヨーク公夫妻やお兄さんたちの紋章が彫られている。やっと対面できた。ステンドグラスにもいくつかの紋章があしらわれている。城と獅子が明るく輝き、ここがカスティーリャ王女の墓所であることを示している。

エドマンド・オブ・ラングリーはエドワード3世の第5子で、エドワード黒太子やランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの弟にあたる。よく言えば温厚で無欲、悪く言えば凡庸で無能な人だったとされ、少年王リチャード2世の摂政を務めた以外は特に目立った事績もない。この時代の王族としてはきわめて稀有なことに、一人の愛人も庶子もなかったという。
公妃の方はカスティーリャのペドロ1世の三女で、ランカスター公妃コンスタンス・オブ・カスティルの妹である。内戦で父を失い、亡命同然の形で姉とともにイングランドにやってきた。後ろ盾を失った流浪の王女として言葉も気候も違う国で暮らすのはさぞかし大変だっただろうと思いきや、この公妃はなかなかたくましい女性だったようで、退屈な夫に飽き足らず愛人をつくったりして楽しくやっていたらしい。


墓の前面の刻まれている紋章は、左から
神聖ローマ皇帝カール4世(リチャード2世妃アン・オブ・ボヘミアの父)
エドワード黒太子
ライオネル・オブ・アントワープ
エドマンド・オブ・ラングリー&イザベル・オブ・カスティル
エドマンド・オブ・ラングリー
トマス・オブ・ウッドストック
ヘンリー・オブ・ボリングブロク(のちのヘンリー4世)

面白いのはヨーク公がこの華やかな妻を本当に愛していたと思われることで、イザベルの死後、ジョーン・ホランドとの再婚も前妻の喪が明けるのをきっちり待ってから行い、自身が亡くなる際にはイザベルのそばに埋葬するよう遺言を遺している。
夫妻の間には二男一女が生まれ、末子リチャード・オブ・コニスバラの息子が薔薇戦争の主役の一人となる3代ヨーク公である。
プランタジネット朝末期の歴史は簒奪に簒奪をくりかえす血なまぐさいものだったが、子孫たちの争いなど知らぬげに、夫妻はこの小さな町で静かに眠っている。


ヘンリー7世に仕え、1528年に没したSir Ralph Verneyの墓

棺のそばの説明書きによると、ヨーク公夫妻の墓はもともとは同じキングスラングリーにあったドミニコ修道会付属教会に安置されていた。リチャード2世と王妃アン・オブ・ボヘミアも、ヘンリー5世の命でウエストミンスターに移されるまではヨーク公夫妻のそばに埋葬されていたという。1574年にドミニコ会修道院がなくなった時に、棺は諸聖人教会へと移された。
宗教改革や清教徒革命の影響で、墓が残っている王族は意外なほど少ない。ヨーク公夫妻の墓が、教会がなくなるという不運にもかかわらず、わざわざ移されて大事に守られてきたのは僥倖というべきだろう。移葬はエリザベス1世の命だったとも言われているそうだが、実母の改葬さえさせなかったエリザベスが、いかに直系とはいえ、これほど遠い祖先の墓を気にかけただろうかと思う。それよりは、キングスラングリーで生まれキングスラングリーで死んだこの公爵を土地の人々が愛していたのだろうと考えるほうがしっくりくる気がする。
なお、1877年に行われた調査では、中年の男女一体ずつと、若い女性一体の遺骨が発掘されたという。中年の男女はヨーク公夫妻、若い方の女性は、リチャード・オブ・コニスバラの妻アン・ド・モーティマーであろうと言われている。


教会の外には一般の人たちの墓地が広がる。
緑に囲まれた明るく居心地のよさそうな墓地だった。


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