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滯英日記 >> ピーターバラ

2011.9.13(火)

ピーターバラ Peterborough

今日はレスターからピーターバラに行き、観光をしたのち、ヨークに向かうつもりだった。
が、日本で下調べをしている時に重大な事実が発覚。
ピーターバラには、コインロッカーや荷物預かり所の類が一切ない!
ピーターバラに限らず、英国にはこの種の設備がないのが普通らしい(テロの影響もあるようだ)。
立ち寄り観光がしたい個人旅行客には酷な現実である。ああ、気軽にコインロッカーを利用できたドイツがなつかしい。

というわけで、チェックアウト後、そのまま荷物だけをホテルに預けて駅へ行く。めんどくさいが仕方がない。
カテドラルの前を通り過ぎ、セント・マーティン通りからグレイフライヤーズ通りへの角にさしかかった時、ふと向かいのビルの壁を見ると、そこにあれほど探して見つからなかったリチャード三世の銘板がかかっていた。

この近隣にグレイフライヤーズの教会があり、リチャード3世の遺体が埋葬された
彼はプランタジネット朝最後のイングランド王であり
1485年8月22日 32歳にしてボズワース・フィールドの戦いに斃れた
安らかに眠れ


てっきりグレイフライヤーズの跡地にあたるグレイフライヤーズ通り西側に設置されていると思いこんで、そちらばかり注意して見ていたのだが、東側にあったのだ。

往復切符を買って9時18分発のStansted Airport行きに乗る。一時間弱でピーターバラに到着した。
ピーターバラは現代的な街だった。中心部のカウゲートにお店が揃っているので暮らしやすそうではある。歴史的建造物もこの通り沿いにだいたい集中している。


聖ジョン教会

 

ギルドホール


ギルドホールと向かい合う形で、立派な門が建っていて、それをくぐると大聖堂の寺域に入る。カテドラルを中心に緑豊かな庭が広がり、多くの関連施設が立ち並ぶ。ここ自体が小さな町のようだ。


■ピーターバラ大聖堂 Peterborough Cathedral

このような三つのアーチを備えたファサードは他に例のないものだというが、やや硬直したような、平面的な印象を受ける。
中に入ると教会の男性が声を掛けてきた。入場料は無料だが、写真を撮るには3ポンド必要だという。
「一緒にガイドブックはいかがですか? 売店での買い物が15パーセントオフになる券がついてきます」
「じゃあそれも」
なかなか商売上手な人であった。


聖歌隊席


扇形リブ・ヴォールト


《メアリ・スチュアートの墓》

南側の回廊にはスコットランド女王メアリ・スチュアートの墓がある。正確には墓の「跡」。メアリ・スチュアートはフォザリンゲイ城で処刑された後、このカテドラルに葬られたが、息子のスコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位すると、ウエストミンスター寺院に改葬された。

《キャサリン・オブ・アラゴンの墓》

主祭壇を挟んでそのちょうど反対側にあるのがキャサリン・オブ・アラゴンの墓所。イングランド王家の旗とともにカスティーリャ・アラゴンの旗が飾られているのですぐにそれと分かった。
もともとはグレーの墓石があったそうだが、1643年、イングランド内戦で大聖堂が荒らされた時に一緒に破壊され、現在の黒大理石の墓石は1895年に再建されたものである。

「かつて兄の妻であった」ことを口実にヘンリー8世から結婚無効をつきつけられたキャサリンは、一人娘のメアリと会うことも許されず、ピーターバラに程近いキンボルトン城に幽閉されていたが、1536年1月7日、おそらくは癌によって死去した。晩年は毒殺を恐れ自分の部屋で煮炊きさせたものだけを食べるような生活だった。
外国出身の王妃は嫌われることが多いものだが、キャサリンは一貫して国民から慕われた人で、それは離婚して王妃の称号を失ってからも変わらなかった。彼女の葬儀に際しては、キンボルトンからピーターバラまで、棺を担ぐ行列が長く続いたという。

墓前には花や紙で作った十字架が捧げられ、土地の人々がいまもこの王妃に深い敬愛を寄せていることが感じられた。柵に掛けられている肖像はクロスステッチでできている。

キャサリンは小柄で、赤みがかった長い金髪、やさしい丸顔で顔色はやや青白かった。現代のキャサリンの肖像に見られるような「スペインらしい」特徴とは対照的に思われるが、彼女の容姿は曾祖母のキャサリン・オブ・ランカスターから受け継がれたと考えられている。
 (クロスステッチのそばにかけられていた説明)

キャサリン・オブ・ランカスターは、レスターで墓が行方不明になっているコンスタンス・オブ・カスティルが産み、カスティーリャに嫁がせた娘だ。キャサリン・オブ・アラゴンの名はこの曾祖母にちなんだものである。
ヘンリー7世はランカスターの後継者を名乗ってリチャード3世を斃したが、その根拠は脆弱で、王権はきわめて不安定だった。プランタジネットの血をひく王女を息子の妻に迎えることで、不安定な王座を補強しようとする意図は少なからずあっただろう。


最後のピーターバラ大修院長であり、最初のピーターバラ司教となったジョン・チェンバースの墓。
英国国教会はキャサリンの離婚問題から生まれた

墓所の後ろにはパネルが設置されてキャサリンの生涯について詳しく説明している。キャサリンが最後に王に宛てて書いた手紙のコピーもあった。
「最後にひとめお会いしとうございました」
という悲しい言葉を読んだときヘンリー8世の胸に去来したのはどんな思いだったのか。手紙は「Katharine the Queen」の署名で締めくくられている。キャサリンは最後まで離婚を認めなかった。

キャサリンの墓所にはちょっとした怪奇話が伝わっている。
キャサリンを王妃の座から追い落としたアン・ブーリンがわずか三年後に姦通の罪で斬首されたとき、この墓所に捧げられた蝋燭がいっせいに点灯した。さらには、ミサの最中に、今度は風もないのにいっせいに消えるということがあったという。このようなことがたびたび起こり、人々の口の端にも上るようになったため、ヘンリー8世は30人の大調査団をピーターバラに派遣して調べさせたが原因は分からないままだった。
この逸話が紹介されている『幽霊のいる英国史』(石原孝哉著,集英社新書)によると、このような幽霊伝説には「泣く子も黙る絶対君主に対する、物言えぬ民衆の密かなる告発」が反映されているのだという。キャサリンに同情する者がいかに多かったかということだろう。

外に出て壮麗なカテドラルを振り返り、キャサリンは一人の家庭人としては不幸だったかもしれないけれど、こんなに立派な美しい所に埋葬され、何百年たっても愛されて大切にされて、それだけは本当によかったと思った。

10時52分発の電車でレスターへ。検札に回ってきた車掌さんはターバンを巻いていた。

■聖メアリ・デ・カストロ教会 Church of St.Mary de Castro

レスターに降り立ち、ホテルに帰る前にSt.Mary de Castro教会を見学。なにしろ平日の12時から14時までしか開いていないのだ。

中に入るとボランティアと思われる女性が近づいてきて
「大学の学生さん? 違うの? じゃあこのへんで働いてるのね。あら、旅行者なの、そう。いつからレスターにいるの? 他にはどこか行った?」
と質問しつつ解説を手渡してくれた。
内部は色々な様式が混在しているようだ。
ここにはジョン・オブ・ゴーントと最初の妻ブランシュの子供たちのうち、乳児期に亡くなった三人が葬られているそうだが、墓碑などは見つけることができなかった。

2ポンド寄付して帰ろうとすると、今度は年配の男性から「大学の学生さん?」と聞かれた。De Monfort大学は留学生もたくさん受け入れているようで、中国や韓国系と思われる若者の姿をたくさん見かけたが、私もその一人と思われたようだ。





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