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ノイエンガンメ強制収容所 Gegenkstätte Neuengamme

■ノイエンガンメへ

12:30過ぎにハンブルクの古めかしい駅に到着。ハンザ同盟の中心都市だが、私にとっては小説家の多和田葉子が住んでいた町というイメージが強い。
ロッカーが5ユーロと高いうえにほとんどふさがっていたので、スーツケースはクロークに預けた。同じく5ユーロ。同じ値段なら人に預けたほうがなんだか安心な気がする。お金を崩す必要もないし。
Sバーン21番線に乗り換えてベルゲドルフ(Bergedorf)へ。街がどんどん遠ざかり郊外から農村風の光景に変わっていく。ipodを操作しながら目を上げると向かいの席の女の子が私のとまったく同じ型・色のipodを持っていた。


ベルゲドルフ駅前のバス停


ベルゲドルフはベッドタウン風の町。駅前のバス停でノイエンガンメ行き(227か237)をチェックするとちょうど五分後にある。地元の子供たちに混ざってバスを待った。
運転手さんに行先を告げて切符を買う。料金は2.70ユーロ。ノイエンガンメの発音は難しいようで、一回では通じなかった。
一番前の座席に座って前を見ていると、前の車のお尻に「功夫」と書かれていた。カンフー…? それとも「イサオ」だろうか。誰? オーナーが東洋好きなんだろうか。しかし車にはベンツのマークがついている。
意識して見てみると、周囲を走る車はベンツかVWがほとんど、次に多いのがアウディで、日本車はまったく見当たらない。ドイツ人はやはりドイツ車が好きなのだろう。ちなみにバスもベンツ製であった。


バスの中から


功夫?


バスは住宅街の中をすり抜けるように走る。傾斜の大きい屋根をもつ、いかにもヨーロッパ的な家々。ほとんどが戸口にリースを飾っている。紅葉との取り合わせも目に楽しく、これから強制収容所に行くことをつい忘れてしまいそうだ。

やがて人家が極端に少なくなって、農地の中の一本道を走り始める。右手に手を振っているような風車の群。その下にレンガ造りの建物が見えてきた。視界の隅にレールが映った。今はもう使われていない、過去の鉄道の痕跡。ノイエンガンメに着いたのだ。

■慰霊碑


ところがうっかりしていてボタンを押し忘れ(というのは本当にここで降りていいのか自信がなかったからなのだが)メインエントランスを過ぎてしまった。
次の停留所で降りると、小さな門があった。本で見覚えていた慰霊塔とノイエンガンメの名を刻んだ碑があった。(犠牲者の数が修正されている。)もともとはこちらが入り口だったのではないかと思われる。さっきバスから見たエントランスはずいぶん新しく見えた。ベルゲン=ベルゼンと同じように最近リニューアルされたのだろう。


少し奥まったところに小さな建物があった。入ってみるとメモリアルルームになっていて、壁一面に被収容者の名前と死亡年月日が書いてある。
私はフリッツ・プフェファーの名前を探した。しかしすぐに無理だと悟った。彼の亡くなった日を記憶していなかった私には、膨大な人名の中からその名を見つけだすことはきわめて困難だった。
フリッツ・プフェファーはアンネ・フランクの隠れ家における「ルームメイト」である。やはりドイツ出身で、クリスタルナハトを受けて1938年にアムステルダムに移住していた。フランク一家、ファン・ペルス一家とともに逮捕されたのち、ヴェステルボルク、アウシュヴィッツ、ザクセンハウゼンを経てこの収容所で亡くなったと記録されている。アンネの日記には愚かで口うるさい爺さんとして登場するが、実際にはベルリン大学で歯科学と口腔外科学を学んだインテリで、ミープ・ヒースによるとシャンソン歌手のモーリス・シュヴァリエに似たハンサムな男性だったという。
彼のように医療関係者だったり手に職のある者は生き残れる確率が比較的高かったはずなのだが、それすらも通用しなくなるほど第三帝国末期の収容所の環境は過酷だった。


受付で地図をもらい、歩いてメインエントランスに戻る。
道路と収容所は浅い小川で隔てられていて、そのむこうにポプラが植わっている。確かアウシュヴィッツにもポプラの並木道があったはず。SSはポプラが好きだったのだろうかと考えた。
敷地は広大だ。ここはもともとユダヤ人の経営する煉瓦工場だったのを、ドイツ政府が接収してユダヤ人の強制労働収容所として利用したのである。


エントランスの正面は放牧地になっていて、ひつじがのんきに草を食んでいた。カメラを向けると何匹かが顔を上げてこちらをじっと見つめる。ほとんどがサフォークだが、たまに品種の違う子もいる。
敷地内は広くてがらんとしていた。茶色の細かい石をつみあげて針金で囲い、かつてのバラックの位置を示している。バラック跡とバラック跡の間には砂利が敷き詰められていて、歩くと一歩ごとに大きな足音がする。


メインエントランス



■展示室

メイン展示室は以前囚人ブロックだった建物を利用している。外壁は修復中らしく、作業用の足場が組まれていた。頑丈に見えても60年以上前の建物だから、メンテナンスは不可欠なのだろう。内部は改装されて明るく現代的な展示室になっているのだが、一部洗い場などが残っていた。そのすぐ隣が来館者用のトイレになっていて、もちろん現代式のきれいなトイレなのだが、なんだか妙な気がして落ち着かなかった。
ベルゲン=ベルゼンと同様、個人に焦点をあてた展示が目に付いた。


展示館内部に残る洗い場


この頃にはだいぶ腹痛もおさまっていた。
パンフレットを買って再び外に出る。見学者はほとんどおらず、今にも泣きだしそうな空とあいまって寂しい雰囲気だ。SSのブロックなどを見学しながら工場へ向かった。




SSのガレージ


■煉瓦工場

 


大きな滑り台のような二本のスロープがついた建物が遠くに見えてきた。煉瓦工場だ。本などで見た通りの外観だが、想像していたよりずっと大きい。
工場の足元からは石畳の道がこちらに向かって延びている。近づいてみると、道と思ったものはレールであった。風雨に侵食されてぼろぼろになった台車が数台、無造作に置かれていた。
スロープの間の階段を上まで登ってみる。一番上まで来た所で振り返り、見下ろしてみるとかなりの高さがある。傾斜もきつい。台車の下敷きになって死んだ人もいただろう。階段を上り詰めた先にある扉は小さく、長身の男性なら頭をぶつけそうだ。


階段の上からの眺め


隣の建物のドアが開いていたので覗き込んでみると、中には人の姿もなく真っ暗でがらんとしている。おそるおそる足を踏み入れるとぱっと電気がついた。それでもまだ薄暗い。
内部は巨大な体育館のようで、屋根の明り取りからわずかな光が差し込む。ここにもレールの跡が床を横切るように残っている。中央にレンガの煙突。床には綿ぼこりがたくさん溜まっていた。
一番奥に写真パネルが申し訳程度に展示されていた。記念館の整備と修復の歴史が分かるようになっている。解放記念式典はここで行われるらしく、その写真もあった。


またプフェファーのことを考える。彼にはシャルロッタ・カレッタという非ユダヤ人の恋人がいた。ともに離婚暦のある大人のカップルである。ニュルンベルク法に阻まれて再婚は果たせず、プフェファーは彼女と離れて潜伏生活に入る。シャルロッタの身にも危険が及ぶ可能性があったので、彼女に隠れ家の場所は知らされず、かろうじて手紙のやりとりだけが続いた。
潜伏中、戦争が終わったら何がしたいかという話になって、みんなが映画を見に行きたいとかお風呂に入りたいとかいう中、プフェファーはとにかく愛しいロッテに会いたいと語っている。他のメンバーが家族単位でまとまっていたのに対し、彼だけが孤独だった。
ヴェステルボルクで、アウシュヴィッツで、ザクセンハウゼンで、彼はシャルロッタを想ったのではないだろうか。ここノイエンガンメで最期の瞬間を迎える時も。そんなふうに引き裂かれた恋人たちはあの時代、どれくらいいたのだろう。
シャルロッタもまたプフェファーを想い続けた。ノイエンガンメで彼が死亡したことが明らかになると、彼女は結婚の手続きを取り、正式な夫婦となった。その後しばらくはオットー・フランクや支援者たちとの交流が続いていたが、やがて音信不通になった。アンネの日記でプフェファーが悪く書かれていることに傷ついたのだろうと言われている。彼女は前夫(やはりユダヤ人だった)も前夫のもとに残してきた息子も同様にホロコーストで失っていた。



■ハンブルクへ

バスの時間が5分後に迫っていたので小走りにバス停に急ぐ。私の到着とバスの到着がほぼ同時だった。収容所を歩いている間、他の見学者はほとんど見かけなかったのに、バス停には7,8人の客がいた。ひつじはまだ草を食んでいた。
バスの窓からHONDAの代理店が見えた。完全アウェーだががんばれHONDA。




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