東方への旅 >> アウシュヴィッツ基幹収容所(1)

2009.11.21(土)

アウシュヴィッツ基幹収容所 Miejsce Pamieci i Muzeum Auschwitz-Birkenau

朝食をとっていると隣の席にアジア人の女性が座った。顔立ちや服装から日本人だろうと思ったものの確信がないので黙っていたところ、あちらから「日本人の方ですか?」と声をかけてこられた。
ご夫婦での旅行で、今日はヴィエリチカに行くのだそう。カルフール便利ですよねと言い合う。部屋においてあったミネラルウォーターが無料かどうか気にしておられたので、私は飲んじゃいましたよと言う。

■オシフィエンチムへ

7:50発のミニバスに乗るためバスターミナルへ。
オシフィエンチムへは電車でも行けるけれど、ドアtoドアの方が何かと便利だろうと考えバスを選択した。国営バスと民営のミニバスがあり、私が利用したのは民営の方。たまたま都合のいい時刻に発車するバスがそれだっただけで、民営を選んだことに大きな意味はない。
発車場所「D8」ホームは地下にあり、すでにバスが止まっていた。20人乗りくらいの本当に小さいバスだ。オシフィエンチムまでの運賃は9ズウォティ。
運よく一人掛けの座席に座ることができたが、住民の足としても利用されているようで、最終的には立ち乗りも出るほどの大混雑となった。

一時間ほどでオシフィエンチムの町に入る。ごく普通ののどかな町だ。
第二次大戦中、この町はポーランドを占領したナチス・ドイツによって名前を変えられた。オシフィエンチムからアウシュヴィッツへと。同様に近郊の村ブジェジンカはビルケナウとなった。
クロード・ランズマンの『ショアー』によると、戦前、オシフィエンチムの人口の80パーセントがユダヤ人だったという。1940年以降、彼らは「強制退去」および「再定住」によってこの町から姿を消した。残された住居は接収され、現地のポーランド人に再分配された。
『ショアー』でインタビューに答えていた住民は「オシフィエンチム」から「アウシュヴィッツ」に移送されたユダヤ人もいるようなことをほのめかしていた。現在のオシフィエンチムにどれくらいの数のユダヤ人が住んでいるのか(あるいは住んでいないのか)私は知らない。前述の住民によると、戦後戻ってきた人もいるとのことだったが。

オシフィエンチム駅に到着した。町の規模には似付かわしくない大きな駅である。この地は戦前から交通の要所であり、そのため収容所を建設する場所として選ばれたらしい。乗客のほとんどはここで降りていった。
バスはさらに少し走り、どこかのフェンスの前に横付けになった。
運転手が私を振り返って何か言う。「ムゼウム?」と聞くと、そうだと言うようにうなずく。
収容所らしきものは見えないが、ここで間違いないようなのでお礼を言って降り、前の女性のあとをついていくと、すぐに「MUZEUM→」の看板が見えてきた。

■アウシュヴィッツ博物館

広い駐車場に面して建っているのは囚人受入所だった建物で、インフォメーション、食堂、売店、トイレが入っており、総合案内所として使われている。見学者はかつての被収容者と同じ道を通って収容所に入るわけである。
建物の中に入ると見学者がたくさん集まっていた。
「うわ、三キロだって」
突然聞こえてきた日本語に思わず振り向くと、若い日本人の男女三人がアウシュヴィッツとビルケナウの地図を指差して話し合っている。アウシュヴィッツとビルケナウは三キロ離れているのだ。もっとも、見学者用に無料のシャトルバスが出ている。

アウシュヴィッツは入場無料である。
団体さんの横をすりぬけると、目の前にいきなり「ARBEIT MACHT FREI(労働は自由への道)」のゲートが現われた。
想像していたよりも華奢な造りだ。
門の向こうには煉瓦造りの建物が霧の中に霞みながら建っている。
到着した朝にも思ったことだが、ポーランドは霧の多い土地のようだ。「夜と霧」は単なる比喩ではなく、この地で生きたフランクルの印象でもあったのだろう。


厨房

門を入ってすぐ右手に厨房がある。
その前の広場は、囚人からなる音楽隊が演奏をさせられた場所だったそうで、当時の写真が展示されていた。

かれは叫ぶもっと甘美に死を奏でろ死はドイツから来た名手
かれは叫ぶもっと暗くヴァイオリンをならせそうすればおまえらは煙となって宙へたちのぼる
そうすればおまえらは雲のなかに墓をもてるそこなら寝るのにせまくない
(パウル・ツェラン「死のフーガ」 飯吉光夫訳)

彼らは毎朝音楽を奏でながら囚人たちを労働に送り出し、同様に夕には帰ってくる仲間たちを音楽で迎えた。
人間性の最も美しい発露のひとつであるはずの音楽が、ここでは死への行進曲だった。

 

厨房の前を通りすぎ右折すると、通りに沿ってバラックが整然と並んでいる。
ここから見る収容所は、こんな言い方が許されるのか分からないけれど、とてもきれいだった。煉瓦造りの建物とポプラの並木が調和して立ち並ぶ様は学校か寄宿舎を思わせた。
所々に清掃の人がいて道を掃き清めている。管理が行き届いているせいもあるのだろうが、バラックは頑丈そうで、外から見る限りでは清潔感すら感じられた。屋根には瓦が葺いてあり、入り口には小さな階段と洒落た照明までついている。ポーランド軍の兵舎だった時代の名残かもしれない。

現在バラック内部は展示室として公開されている。
中に入る前に、鞄から中谷剛著『アウシュヴィッツ博物館案内』を取りだした。
中谷さんは日本人ではただ一人のアウシュヴィッツ博物館公認ガイドである。事前に予約をすれば中谷さんのガイドを受けられるそうだが、一人旅でガイドひとり占めは贅沢だろうかと思い今回は申し込まなかった。
本は実際の見学順路に沿って書かれている。刊行は2005年だが、アウシュヴィッツでは展示替えのようなことは行わないようなので、情報が古くなるということはない。収容所内の売店にもガイドブック類は売られているが(日本語版もあるようだ)、私の場合はこの一冊で十分に用が足りた。

まずは4号館から中谷さんの本を手に回り始めた。



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