東方への旅 >> アウシュヴィッツ基幹収容所(3)

■11号館

地下牢がそのままの形で残されている。牢内はじめじめして嫌なにおいがした。
囚人を立ったまま死に至らしめた直立房。
ツィクロンBによるガス殺実験がはじめて行われたという11号牢。
被収容者が壁に絵を刻んだという21号牢。ここはロープが張られていて入ることができなかった。

18号牢はコルベ神父が処刑された場所。
コンベンツァル聖フランシスコ修道会に属して布教活動に従事していたコルベ神父は、1936年、日本からの帰国直後にナチスドイツに捕らえられる。アウシュヴィッツといえばユダヤ人迫害、というイメージがあるが、ナチスに不利益をもたらすとされたポーランド「政治犯」も多数収容されていた。


中庭から地下に続く階段

1941年7月、コルベ神父は、餓死刑を命じられたポーランド人男性の身代わりとなって、9人の仲間とともにこの牢に入れられた。
コルベ神父の指導により牢内は祈りと聖歌に満ち、聖堂のような清らかさであったという証言が残っている。
刑の執行から2週間後、まだ息があったコルベ神父は、フェノール注射によって殺害された。

長崎の聖コルベ館ではその経緯をパネルで詳しく説明していたが、ここには最低限のキャプションと、記念プレート、燭台くらいしかない。
徹底して物語を排し、感傷を排して、事物の提示に努めている。

ここに限らずアウシュヴィッツの解説はどれも非常にシンプルで言葉少なだった。
来訪者一人一人が自分の目で現物を見て、自分の頭で考えることを期待しているのだと思う。

しかし実際のところ、このような風景を前にして何を思うべきなのか、どんな感想を持つのが「正しい」反応なのかということになると、六ヶ所の強制収容所を訪ねて来た今となってもなお分からないのだった。
犠牲者を憐れむのはかえって無礼な気がするし、ナチスの非道を糾弾する立場にもなく、かといって「平和な時代に生まれた幸せ」を噛みしめるというのも白々しい。


牢の窓を中庭側から見たところ

アンネ・フランクがそうであったように、私もまた言葉で世界を捉えて理解するタイプの人間であり、それ以外に理解の方法を知らない。
しかし現実のアウシュヴィッツを前にして、自分の感情を言い表す適切な言葉は、もどかしいほど浮かんでこなかった。

18号牢はとても狭く、暗かった。天井に近いあたりに格子のはまった小さな窓があり、そこからわずかな光が差し込む。
鉄格子の隙間から手を伸ばして牢の床に赤い折鶴を置いた。
そして遠い長崎を思った。
コルベ神父は殺されるために帰ってきたようなものだと思う。
しかし仮に日本に残ったとしたら、今度は原爆投下に居合わせることになっていたはずだ。
現にコルベ神父の同僚だったゼノ修道士は長崎で被曝している。
20世紀最大の悲劇と言われるアウシュヴィッツと原爆、いったいどのような運命がこれらふたつの苦難を彼らに負わせたのだろうか。

階段を上がって1Fに出ると、廊下にそって小部屋が並ぶ。端から順に見ていくことによって、死刑囚のたどった道が分かるようになっている。
独房、略式裁判を受ける部屋、処刑人の待合室、服を脱がされる部屋、と進み、最後に中庭に出ると、そこには黒い壁がある。囚人はこの壁の方を向いて銃殺された。


死の壁


処刑される同胞が二人か三人の時には、いっさいはブロックの便所のなかで行われた。人数がもっと多い時、われわれはブロックの二階廊下に出ているようにと言われた。刑が執行される中庭に特別にしつらえられた壁の前で何が行われているか、見られないようにするためだ。だが、われわれにも銃声ははっきりと聞こえていた。その数を数えれば、何人の同胞が殺されたかもわかった。五〇、六〇、一〇〇を数えることはざらにあった。ある朝など、一八〇を数えたものだ。中庭に降りてもよいというので行ってみると、地面には血が染み込んでいた。脳漿の残骸が見つかることもあった。同胞たちはみな、後頭部への一発で殺されるからだ。処刑者の数をさらに正確に知ることができた。死体はすべて焼却炉に運ばれる前に裸にされるのだから、中庭の隅に山積みにされた服や靴を数えればよいのだ。
 マルセル・リュビー 『ナチ強制・絶滅収容所』p.286

中庭を挟んで隣り合った10号館の窓には黒い目隠しの板がついているけれど、銃声は隣人たちの耳にも否応なく入ってきただろう。
「死の壁」には石綿のようなスカスカしたマット状のものが貼り付けてあって、ところどころ開いた穴に花や聖像が挿し入れてあった。ここで亡くなった人の多くがポーランド人、つまりカトリック信徒であったことが、これらの捧げ物からも察せられた。


■13〜21号館

フランスの展示

各国およびロマ・シンティの展示。収容棟内はそれぞれ工夫が凝らされ、きれいに整備されている。フランスの展示はモダンで洗練されていた(という感想もどうかと思うが)。
オランダはいかにもオランダらしい明るくシンプルな内装。
たくさんの被収容者の写真に混ざってアンネ・フランク一家と「隠れ家」のメンバーの写真もあった。
彼ら8人は1944年9月3日、アムステルダム近郊の中継収容所ヴェステルボルクを出て、三日後の9月6日にアウシュヴィッツ=ビルケナウに到着した。これはオランダからアウシュヴィッツに向かう最後の列車だったとされる。8人のうち、生き延びてこの地で解放の日を迎えることができたのは父のオットーだけだった。

■14号館、15号館

それぞれPOW(ソ連軍戦争捕虜)、ポーランドの展示コーナーだが閉まっていて入れず。

■クレマトリウム

悪名高いガス室である。
入り口には静粛を求める看板がある。中に入るとひんやりした空気に包まれた。天井は低く、窓がないこともあって息苦しさを覚える。見学者の中には黒ずんだ壁に触れている人もいたが、とてもそんな気にはなれなかった。
ガス室だった部屋を抜けると、二基の焼却炉があり、たくさんの花が捧げられていた。
このクレマトリウムは1943年頃まで稼働していたが、ビルケナウに4棟の大規模なクレマトリウムが建設されたため、こちらは使われなくなった。その後改装され、倉庫やSS病院職員の防空壕として活用されていたのを、戦後になってから展示用に復元したそうだ。だから内装は厳密には当時のままではないのだが、使われている部品や建物自体は本物である。
このクレマトリウムのような展示は特殊な例で、現在のアウシュヴィッツでは基本的に建物などの復元は行っていない。あるものをあるがままに展示する方針を貫いている。

■ルドルフ・ヘスの絞首刑台

クレマトリウムの裏手には絞首刑台が残されている。
強制収容所の解放後、収容所長ルドルフ・ヘスは捕えられ、クラクフで死刑判決を受けた後、この絞首刑台で処刑された。

■SSの病院

 

クレマトリウムの向かいあたりには病院や管理棟など、SS関係の施設が並ぶ。いずれも内部見学はできないが、大きくて立派な建物である。SS病院の戸口にはかわいらしい飾りがついていた。

SS関係の施設がある区域と、被収容者の住む区域は、二重の鉄条網で区切られている。二つの鉄条網の間のスペースは、おそらく看守の通路。
逃亡を防ぐため鉄条網には高圧電流が流されていた。被収容者の中には、絶望してみずから鉄条網に身を投げた者もいたという。

 
 



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