東方への旅 >> アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ(1)

アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ

駐車場でビルケナウ行きの無料シャトルバスの時間を確認する。次は5分後、その次は一時間後である。やはり冬期は本数が少ないようだ。
一時間のロスは大きいので、カフェでの食事は諦め売店で水とけしの実のついたパンを買った。たくさんの見学者と一緒にバスに乗り込む。
パンを急いで口に押しこみながら窓の外を見ると、収容所の前を通る道路に沿って古い線路のレールが走っている。ナチス時代のものとおぼしき工場が打ち棄てられ廃墟となっているのも見えた。
やがて行く手に建物がたくさん見えてきて、あれも昔の工場だろうかと思っていたら、突如目にあの門が飛び込んできた。
ビルケナウだ。
工場だと思ったものはビルケナウのバラックだった。しかしその印象もあながち間違いではなかったかもしれない。なぜなら、ここは死を生産する工場に他ならないからだ。

■死の門

死の門は道路の先にほとんど唐突に建っていた。線路が門の下から公道に伸びてまだ残っている。その先端はぷつんと切れ、草地の中に消えていく。

門をくぐり、ビルケナウの敷地内に立った。
引き込み線をたどってランペ(降車ホーム)をめざす。
ランペは小学校の校庭のように砂がしかれていて意外に小さいスペースだった。


さて、ことは、次のように運ばれた。
ユダヤ人列車が、そうね、朝の二時に、
到着予定だったとしよう。
列車が、アウシュヴィッツ近くの駅に着くと、
SS(親衛隊)に連絡が入る。
ぼくたちは、SS隊員に起こされ、ランプまで行かなければならない。
ただちに、夜の闇の中を護送されて、ランプに到着……。総勢、二〇〇人ぐらいか。
いっせいに、照明がつく。
ランプの周囲には、投光器があったんだ。
照明を浴びて、整列するSS隊員の姿が、浮かび上がる。
一メートルおきに一人ずつ。銃を握っている。
ぼくたち囚人は、なかに入れられ、
列車を待ち、命令を待つ。
さて、全員が部署につき、用意が完了すると、列車の到着だ。
非常に、非常にゆっくりと、
いつも機関車を先頭にして、ランプに入ってくる。
ここが、線路の終点であり、
乗っているユダヤ人の、旅路の果てだった。
 『ショアー』 より ランペで働かされていた被収容者ルドルフ・ウルバの証言(pp.106-107)


ある被収容者は、サーチライトに照らされたランペに降り立った時、月が三つある別の惑星に来たかのような錯覚を覚えたと回想している。
到着した人々は男女に分けられ、さらに働ける者と働けない者に選別された。多くの人々にとってここが家族や友人の姿を見た最後の場所となった。
当然、今は投光機は取り払われ、ただ秋の陽光が穏やかに降り注いでいる。

隅のほうに貨車がぽつんと置かれていた。家畜用の運搬車両である。被収容者たちはこういった列車に押し込められてこの地にやってきた。
彼らが置かれた状況を想像するのに一番近い喩えが日本の首都圏の通勤ラッシュだと思う。欧米人などからは非人間的だと評されるあの混雑。山手線などに採用されていた(最近は姿を消しつつある)、ラッシュ時には座席が上がってただの箱のようになるあの6ドア車両は、つねづねナチスの移送列車のようだと思っていた。
もっとも通勤ラッシュの車両にはちゃんと窓があるし、各駅ごとにドアが開くし、その気になれば自由に降りることもできる。
目の前の車両には窓がなかった。長い時は数日にわたって車両の中に押し込められ、水も満足に与えられなかった。移送中に死亡する人も少なくなかったという。

■B1地区


ランペ左手はB1地区と呼ばれ、芝の中にれんがのバラックが残っている。女性が収容されていた場所で、おそらくこの区域にあったと思われる「29号棟」にアンネ・フランクは収容されていた。
地図で「Block29」と書かれた場所に行ってみたが、建物はすでになく、痕跡だけがかすかに残っていた。数字は同じだがここが本当に彼女がいた場所なのかどうかは分からない。

アンネと姉のマルゴーは、1944年9月6日から10月30日までの2ヶ月弱を、ここビルケナウで過ごした。
ヴェステルボルクの中継収容所では、強制労働は課せられたものの、それなりに人間的な生活を送れていたと言われ、ビルケナウに到着した時点では彼女らは比較的良好な健康状態を保っていたものと思われる。
しかし、ベルゲン=ベルゼンに移送される時の二人は別人のようにやせ衰え、疥癬に侵されていたという。
健康な若い女性を2ヶ月たらずでそこまで衰弱させてしまうここでの生活とはどんなものだったのだろうか。

娘たちが移送された後、ひとり取り残された母のエーディトは衰弱し、翌1945年1月に餓死している。
この広い土地のどこかに墓標もないまま眠っているのだ。

アーヘンの実業家のお嬢さんとして生まれたエーディト。
あの瀟洒なフランクフルトの家と、アムステルダムの清潔なアパートが思い出された。

生い茂った草が足音を吸収する。ところどころ地面がむき出しになって泥水がしみ出ていた。元は湿地帯だっただけあって水捌けは悪い。

手近なバラックの中に入ってみた。
アウシュヴィッツの収容棟と違い、基礎もなく地面に直接建てられている。煉瓦敷きの通路はぼこぼこと波打って歩きづらかった。
通路の両わきには三段の寝棚がそのまま残っている。一番下の段などは特に暗く、手をさし入れると冷たい湿気が感じられた。


トイレの棟、洗面所の棟もある。排水溝の上に穴の開いた板を渡しただけの簡素な作り。



■子供の収容棟(16号棟)


アウシュヴィッツへ移送されてきた子供たちのうち、14歳未満の者は即ガス室に送られるのが常だったが、どうしたわけか1943年中期以降、ユダヤ人以外の子供や収容所内で産まれた子に対する方針が変わり、B1a地区の16号棟にこれらの子供たちが収容されることになったという。
16号棟の壁には子供向けの絵が残っている。収容棟の入り口にも飾り文字がほどこされていた。被収容者の中にいた画家に描かせたものだそうだ。
画家が絵に込めた思いはともかく、看守たちは何を思ってこれを描くよう命じたのだろうか。こんなもので子供たちの心が宥められるはずもない。収容所の圧倒的な現実の前に、この絵はあまりに無力だっただろう。

■死のブロック(25号棟)


選別され、ガス殺を待つ女性たちが収容された棟。ここだけ隣の棟との間に壁が渡され、中庭のようになっている。バラックが満員の時はこの中庭で順番を待ったと言う。



内部は他の収容棟と変わらない。隅のほうで小さなストーブが錆びているのを意外な思いで見た。暖房器具としては申し訳程度の効果しかなかったとしても、ナチスはここにストーブを設置した。先ほどの16号棟の絵もそうだが、このような場所で、人道主義めいたものを見て取ることに戸惑いを禁じえなかった。




■第二、第三クレマトリウム


第二クレマトリウム


第三クレマトリウム

死の門を背にさらに進むと第二、第三クレマトリウムがあらわれる。ドイツ軍の撤退にともなって破壊された時のまま、雨ざらしになっている。このあたりは特にぬかるみがひどく、靴が泥だらけになった。
露天に放置されたクレマトリウムの遺構はかなり風化が進んでいるように見えた。このまま朽ちるに任せるのだろうか。それでも完全に土にかえるまでにはまだまだ長い時間が必要だろうけれど。


国際慰霊碑


ふたつのクレマトリウムの間には国際慰霊碑がある。その前で引き込み線が尽きていた。
線路のはるか先に死の門がかすんで見える。ここから見ると外の世界はあまりに遠い。
ここがヨーロッパの涯だ、と思った。
四方を海に囲まれ、少し行けばすぐに海にぶつかる島国の鉄道と違って、大陸の鉄道はすみずみまで張り巡らされ、どこまでもどこまでも繋がっている。1999年からこのかた、旅行のたびに利用してきたヨーロッパの駅の数々が脳裏によみがえってきて、めまいを覚えた。


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