東方への旅 >> アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ(2)


林の中へと細い道が延びていた。
小川があり、林があり、長閑な光景が広がっている。貯水槽か何かだろうか、道沿いに大きな円形の建造物が建っている。

■ザウナ



さらに奥に進み、ゲートを過ぎるとその向こうに大きな建物が見えてくる。これがザウナで、選別で「働ける」と判断された人々が連れてこられた場所である。
建物の中は無人だった。入口に置かれていた地図をとってひとりで室内を回る。全体に説明の少ないアウシュヴィッツの中で、ここでは図と案内板を用いて収容者の道順を解説している。


脱衣場・登録ホール




散髪室


待合室
(裸のまま数時間に渡って待たされることもあった)




衣類をスチームで消毒するための設備


囚人服支給所



室内はきれいに片づけられ、見学用の通路が設置されている。ともすれば博物館の展示を見ているような気分になる――だがそのたびに、アンネ・フランクというひとりの人間の存在が私を現実へと私を引き戻してくれるのだった。
アンネもここで髪を切られた。アンネもここでシャワーを浴びた。これらはすべて本物なのだ。

来訪者にこうした認識を与えるという意味において、アンネ・フランクと「日記」の残した功績はまことに大きい。数万という死者は、その苦しみひとつひとつに共感し、一緒に涙を流すには、あまりに数が多いのだ。しかし、その数万の死者の中にたった一つでも見知った人間の顔が見出せるということは、このような場所で過去へ思いをはせる時、非常に大きな意味を持つ。

最後の部屋には写真がたくさん展示されていた。被収容者の所持品に含まれていたものだ。ここに写っている人のうち、四分の一についてはすでに身元が判明しているという。



砂利を踏みながら建物の外に出た。
60年前、被収容者たちが同じようにザウナを出た時、彼らは持ち物を奪われ、頭髪を奪われ、名前を奪われていた。

そこで私たちははじめて気がつく。この侮辱、この人間破壊を表現する言葉が、私たちの言葉にはないことを。一瞬のうちに、未来さえも見通せそうな直感の力で、現実があらわになった。わたしたちは地獄の底に落ちたのだ。これより下にはもう行けない。これよりみじめな状態は存在しない。考えられないのだ。自分のものはもう何一つない。服や靴は奪われ、髪は刈られてしまった。話しかけても聞いてくれないし、私たちの言葉が分からないだろう、名前も取り上げられてしまうはずだ。もし名前を残したいなら、そうする力を自分の中に見つけなければならない、名前のあとに、まだ自分である何かを、自分であった何かを、残すようにしなければならない。
 …(略)…
さて、家、衣服、習慣など、文字通り持っているものをすべて、愛する人とともに奪われた男のことを想像してもらいたい。この男は人間の尊厳や認識力を忘れて、ただ肉体の必要を満たすだけの、空っぽな存在になってしまうだろう。というのは、すべてを失ったものは、自分自身をも容易に失ってしまうからだ。こうなると、このぬけがらのような人間の生死は、同じ人間だという意識を持たずに、軽い気持ちで決められるようになる。運が良くても、せいぜい、役に立つかどうかで生かしてもらえるだけだ。こう考えてくると「抹殺収容所」という言葉の二重の意味がはっきりするだろうし、地獄の底にいる、という言葉で何を言いたいか、分かることだろう。
 プリーモ・レーヴィ『アウシュヴィッツは終わらない――あるイタリア人生存者の考察』(pp.23-24)


ふと足下を見ると、枯れ葉に混ざって混ざってどんぐりがたくさん落ちていた。収容所内は慢性的に食糧不足だったが、時にはSSの目を盗んでこうした実を拾うことはできたのだろうか。

■カナダ



ザウナの向かいあたりにはかなり広い範囲で建物の痕が残っている。被収容者から略奪した物品を保管する倉庫が立ち並んでいた場所で、「カナダ」という通称で呼ばれていた。不思議な呼び名に思えるが、当時、カナダ=豊かな地、というイメージがあったのだという。

■第四、第五クレマトリウムと死の池


第四クレマトリウム


脱衣所



カナダを右手に見ながら進むと、第四クレマトリウムの残骸。すぐそばには脱衣所のあとが確認できた。
背後には森が広がっている。この森もまたガス室の待合室だった。選別されガス室行きが決まったものの収容するバラックがないというとき、人々は数日にも渡ってこの森の中で待たされたのだ。
森の中にしゃがみこむ人々の写真が残っている。ほとんどが老人と女性、子供だ。

通路を挟んで第四クレマトリウムと隣あう形で、第五クレマトリウムの瓦礫が残っている。
その左手、やや脇道にそれたところに林に囲まれた小さなスペースがあった。



死体が野焼きされた空き地

 

第五クレマトリウム


焼却炉でさばききれなくなった大量の遺体は、この空き地に丸太のように積み上げられて焼かれた。
そして進行方向に目を向ければ、骨灰を棄てた「死の池」が見える。



死の池


ここまで来ると人影もない。私は一人で大量殺戮の現場に立っていた。
静かだった。
風が木々を揺らしてそよそよと吹く。
恐怖とも怒りとも悲しみともつかない感情が身内に湧き起こった。

今までいくつかの国を旅し、色々な場所を見てきた。血塗られた歴史を持つ土地なんていくらでもある。戦場、刑場、殉教地、革命の血が流れた広場もあれば、核爆弾の落とされた街もあった。けれども、今私が立っているここのような場所は他になかった。
人類の悲劇の舞台としてアウシュヴィッツ=ビルケナウと並び称される広島・長崎は、今ではすっかり復興を遂げ、正常な人間の営みが行われている。しかしアウシュヴィッツ=ビルケナウにそういう日が訪れることは永遠にない。ここでは時が止まっているからだ。
私はヨーロッパの涯どころか人類の歴史の涯に来てしまった。
歴史を巡る旅の果てに行き着いた場所がここだったとは。

のろのろと「死の門」の方角に向かって歩き出した。
あれほどいた団体客はどこに行ってしまったのか、見渡す限り無人の風景が広がっている。時刻はまだ15時前だが、すでに空気には夕刻のにおいが混ざりつつあった。

■「ジプシー」収容地区


このあたりは「ジプシー」収容所があった区域だという。バラックはほとんど崩れ落ちていて、基礎部分と煙突だけがかろうじてポツンポツンと残っていた。何羽ものカラスが煙突と煙突の間を飛び回って遊んでいる。どうしてこんなにカラスがいるのだろうとぼんやり考えた。


32号棟跡

「アウシュヴィッツの死の天使」と呼ばれたヨーゼフ・メンゲレ博士が双子を使って人体実験を繰り返した32号棟の跡地。ここにもバラックは残っていなかった。

■男性収容地区



「ジプシー」収容所の隣は男性収容所区域でバラックやトイレの残骸が残っていた。
中谷氏の本によると、男性収容所の男性と「ジプシー」収容所の女性との間で鉄条網越しの恋が生まれたことがあるという。今は二つの区域を隔てる鉄条網は朽ちてしまったのか、支柱だけが並んでいる。

■死の道

男性収容所とハンガリー人収容所の間の鉄条網の下に隙間があった。見学者が近道として利用しているようで、ちょっと鉄条網が持ち上がり、道のようになっている。私もそこをくぐって通路に出た。
出たのはランペと垂直に交わる道で、「死の道」と書かれた案内板が立っていた。選別された老人や子供たちがガス室に向かうために通った道だという。腰の曲がった老婆が、孫らしき子供たちと一緒に歩いていく姿を映した写真が展示されている。

ここまで来ると、ようやく人の姿が見られるようになった。
他の見学者とすれ違いながら、ランぺまでたどり着き、あとは線路の脇を通って「死の門」を目指した。

■検疫隔離収容所


死の門に向かって右手に保存されている木造のバラック群を見学する。本来は厩舎として使用された建物で、ここでは寝棚も木の三段ベッド。入口にロープが張られていて、奥まで入ることはできなかった。

■死の門から

最後に死の門に上った。複雑に折れ曲がった階段は当時のままなのだろうか。
窓から線路とバラック群を見下ろす。やはり広い。
埃で薄汚れたガラスを通して、収容所の全景が悪夢の中の景色のようにぼやけて見える。
すでに日は暮れかけて、夜の気配がビルケナウに忍び寄っていた。


「死の門」は金網で封鎖されている。
二度とこの門を列車がくぐることはない。



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