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ブーヘンヴァルト強制収容所 Konzentrationslager Buchenwald


13時過ぎにヴァイマルに到着した。ホテルは駅の向かいにあるKaiserin Augusta。ヴァイマル観光がメインなら町中心部に宿をとった方が便利なのだろうが、駅へのアクセスを考えてここを予約した。トーマス・マンらが泊まったこともあるという歴史あるホテルだが、部屋数は多く、値段もそれほど高くない。
幸いすぐチェックインできたので、荷物を置いて駅にとんぼ帰り。駅前のバス乗り場でブーヘンヴァルト行きの時間をチェックすると、まだ30分くらい余裕があったので、駅のカフェで軽くお昼ごはんにする。
腹ごしらえをすませ、バス停留所に行ってみると、女の子4人グループが同じようにバスを待っていた。彼女らの会話を聞くともなしに聞いていると、なぜか知っている単語がちらほら出てくる。私はいつの間にドイツ語が分かるようになったのかしら?と思ったが、よくよく耳をすましてみたらスペイン語だった。

バス停の電光掲示板。
ブーヘンヴァルト行きは6番線。終点なので分かりやすい。
発車時刻ではなく「あと何分でバスが来るか」表示されている。




■ブーヘンヴァルト強制収容所 Konzentrationslager Buchenwald

公式サイト

強制収容所跡は市街地とは逆の方向にバスで15分ほど行った所にある。殺風景な通りをしばらく走り、オベリスクのある角を曲がるともう人家も見えない。林の中を突っ切る道をひたすら走る。ブーヘンヴァルトは「ブナの森」という意味だそうだが、あれがブナの木々なのだろうか。
終点のバス停は綺麗に整備された駐車場の中にあった。インフォメーションの真新しい建物が建っていて、トイレやカフェも併設されている。
帰りのバスの時間を確認してから、他の見学者とともにインフォメーションに入る。さっきスペイン語を話していたグループの一人が「チケット4枚」と申し出るとカウンターの女性が微笑んで言った。
「ここは入場無料です」
そう、強制収容所跡はどこも入場無料なのだ。(オーストリアのマウトハウゼン等、ドイツ国外の強制収容所跡では入場料を取るところもあるようだ。ただし、ポーランドのアウシュヴィッツは無料。)

英語のパンフレットを1ユーロで買ってインフォメーションを出る。
インフォメーションの裏手に伸びる道をしばらく歩くと、立派な門が見えてきた。

門に刻まれているJedem das Seineは「各人に各人のものを」の意味だという。Arbeit macht frei(労働は自由への道)と同じくナチスの好んだ文言で、「誰にも分がある」とか「分相応」などと意訳される。

門をくぐって立つと広大な敷地をやや見下ろすような形になる。かつて毎日のように点呼が行われた広場だ。
バラックは残っていないが、跡地が色の違う石を使って表現されていた。その一つ一つに、バラック番号を示す碑が立っている。所々に慰霊碑も見られた。


■展示室

かろうじて保存された煉瓦造りの貯蔵庫が展示室として利用されている。
内部では三階建ての広い空間を利用して収容所の歴史と収容者の生活について解説していた。すべての説明が英訳されているわけではないが、写真や資料をふんだんにつかった充実した内容だ。
積み上げられた死者の写真、収容者たちの使っていた食器や衣服、死体を運搬した台車、絞首刑台の残骸の展示もある。
それらに混ざってボタンの入ったガラスケースがあった。文明の痕跡。そんな言葉が頭に浮かんだ。

ブーヘンヴァルト解放時の有名な写真が大きく引き伸ばされて展示されている。

中段の寝棚の左から七番目にいるのが当時16歳のエリ・ヴィーゼルだが、やつれ果ててまるで老人のようだ。
ブーヘンヴァルトの解放を、ヴィーゼルは次のように書いている。

(1945年4月11日の)午前十時、親衛隊員が収容所一帯に散らばって、最後に残った生け贄たちを点呼広場に狩り出しにかかった。
そのとき、抵抗運動は行動開始を決定した。突如、武装者がいたるところから現われ出た。一斉射撃。榴弾の炸裂。私たち児童は、ブロックの床に貼りついて伏せていた。
戦闘は長くは続かなかった。正午ごろにはすべてが平静に戻っていた。親衛隊員は逃亡し、そして抵抗派は収容所の支配権を握ったのであった。
午後六時ごろ、アメリカ軍部隊の先頭に立った戦車がブーヘンヴァルトの門前に姿を現わした。
 エリ・ヴィーゼル『夜』pp.186-187 (村上光彦訳,みすず書房)


収容所の惨状は、足を踏み入れた米軍兵士たちを愕然とさせるに十分なものだった。司令官のパットン将軍はヴァイマル市長を召喚し、ヴァイマル市民を少なくとも1000人集めるように命じた。「男女比は半々、三分の一は普通の階層、残りは富裕層で。ナチ党員が多ければなおよし」。
こうして選ばれた約2000人のヴァイマル市民がブーヘンヴァルトに集められた。時は四月、うららかな春の陽気を楽しみながら遠足気分でやってきた市民たちは、積み上げられた死体の山と骨と皮ばかりになった生存者の姿を目の当たりにして言葉を失ったという。「ドイツの罪」を一般市民に思い知らせるために講じられた処置だった。


ゲーテの楢

展示館のそばには楢の木の切り株が残っている。ゲーテがその木陰で瞑想したと言われる木である。文化都市として名高いヴァイマルからほんの数キロしか離れていない場所に強制収容所を作るだけでも十分悪趣味なのに、ゲーテゆかりの楢の木を収容所内に大事に保存するとは、もはや悪い冗談としか思えない。
ゲーテの楢は1944年8月、連合軍の空爆によって枯死した。モフセン・マフマルバフ風に言うなら、「ゲーテの楢は爆撃されたのではない、恥辱のあまり焼け落ちたのだ」といった所か。
同じ空襲によって、当時ここに収容されていたヘッセン=カッセル方伯妃でイタリア王女のマファルダも亡くなっている。

■クレマトリウム


敷地隅にはクレマトリウムが残っている。クレマトリウムとは本来焼却炉という意味だが、ナチスの強制収容所について言われる時は、焼却炉はもちろん死体安置所や場合によってはガス室・解剖室なども含めた複合的な施設全体を指すことが多いようだ。
建物のドアに手を掛けたとき、何がおかしかったのか、すぐ後ろで学生風の若い男性がけたたましい笑い声を上げた。中で一緒になりたくなかったのでやりすごそうかとも思ったが、彼が続いて入ってくることはなかったのでとりあえず安心する。

入ってすぐの部屋には解剖台がある。ここでさまざまな人体実験が行われた。白いタイルには無数の細かい傷がついていた。
奥に進むと、戦後に遺族が作ったらしいメモリアルプレートの数々がある。フランス語のプレートが目に付いた。

Mon cheri fils M.Frank, 23 ans
(わが最愛の息子、M.フランク 23歳)


彼は連合軍の捕虜か、そうでなければフランス語圏から連行されたユダヤ人だろう。ユダヤ人だとしたら家族は別の収容所に移送されて生き延びたのだろうか。それとも潜伏して難を逃れたのだろうか。詳しいことは分からないけれど、とにかくこの23歳の青年はブーヘンヴァルトで死に、親は生き残った。シンプルな追悼の言葉に息子を奪われた老親の言い尽くせない思いが込められている。
その隣の部屋には人骨の灰を入れるための壺が大量に並んでいた。政治犯の収容者が死亡したら、この壺に遺灰を入れて有料で遺族に返したそうである。もちろんユダヤ人収容者の遺族にはこの程度の「恩恵」すら受ける権利はなかった。

ドアを開けて火葬場に足を踏み入れる。焼却炉は日本の火葬場にあるものとよく似ているが、ヨーロッパ人の目には相当衝撃的に映るのではないだろうか。私の他に三人の若い見学者がいたが、みな沈痛な面持ちで押し黙っている。煉瓦の上にかけられた千羽鶴にはデュッセルドルフ日本人学校の名前があった。


強制労働に使われた台車と拷問台(囚人を後ろ手に吊るすためのもの)の展示。
後ろに小さく写っている建物が展示室。

クレマトリウム近くの慰霊碑に、ICEの中で折った鶴を置いた。風が強く飛ばされてしまいそうだったので、石を拾ってきて羽根を押さえた。

門の外にはSSとその家族の居住スペースがあったようだ。鉄条網にほど近いところには動物園まであった。二頭の熊が遊んでいる写真が展示されている。熊たちは収容者よりずっといいものを食べていた。その様子は鉄条網の向こうからも見えただろう。
骨と皮ばかりになった人間の目の前で動物に肉を与え、お前たちにはこの熊ほどの価値もないのだと、鉄条網の向こうで飢えるのがお前たちの「分」にふさわしいのだと、そう思い知らせる。SSが収容者にやったのはそういうことであった。


動物園跡


15:26発のバスに乗ってブーヘンヴァルト強制収容所を後にした。進行方向右側を見ていると、巨大な塔のようなブーヘンヴァルトの記念碑が目に飛びこんできた。

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