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東方への旅 >> ベルゲン=ベルゼン強制収容所(1)

2009.11.15(日)

ベルゲン=ベルゼン強制収容所 Gegenkstätte Bergen-Belsen

7時起床。窓から見える空は目に痛いような青で、教会の塔がすっくと立っている。ベルゲン=ベルゼンに行く日がこんなよい天気なのを喜んでいいのか悪いのか少し戸惑う。
日曜の朝のツェレは人通りも少なく、古い町並みを包む空気は清冽であった。駅への道を歩く。昨日は暗かったので気づかなかったが、道路沿いに公園があり、気持ちのいい散歩道になっている。

ベルゲン=ベルゼンまでは一応バスの便があるが、平日のみの運行なので、日曜日の今日はタクシーを使わなければならない。一旦駅の中へ入り、明日のハンブルク行きの時刻表を券売機で確認、プリントアウトしてからタクシー乗り場へ向かった。
乗り場には客待ちのタクシーが何台か列をつくっていたが、先頭の車の運転席はからっぽ。所在なく待っていると、運転手さんがコーヒーカップ片手に戻ってきた。ベルゲン=ベルゼンまでと告げて助手席に乗り込んだ。
どこから来たのか、とかドイツは初めてか、といったお定まりの質問のあとなぜか世界情勢の話になり、必死で昔取ったなんとやらの英語を記憶の底からひっぱり出す。私の英語はインチキだが、運転手さんの英語は正確で発音も聞き取りやすい。「日本はアジアのナンバーワンだが、ヨーロッパのナンバーワンはドイツだ」と誇らしげに言う。
30分ほど走るとベルゲンの村に入った。道路の右側にはNATOの広大な演習地が広がっている。塀の向こうにオフィスのような住宅のような大きな建物が並んでいるのが見えた。
「NATOの軍人さんたちはこの敷地の中に住んでるの?」
「将校はね。一般の兵士の宿舎は別のところにある」
門のそばには展示用なのか、戦車が置かれている。

強制収容所跡地に到着したとき、メーターの数字は40.10ユーロを示していた。だが運転手さんは35ユーロでいいと言ってそれ以上は受け取ろうとしない。
「見学にどれくらいかかる?」と問われ「わかんないけど、ガイドブックには二時間くらい見ておいたほうがいいって書いてあった」と答えると、電話をくれれば迎えに来るからと言って電話番号を書いてくれた。彼の名前はUdoさんという。

■記念館

公式サイト

記念館の横に小さな建物があったので入ってみた。企画展をやっているのだが、係員はおらず、展示もドイツ語のみでちんぷんかんぷんだ。
メインの記念館に移動する。2007年にできたばかりの新しくきれいな施設だ。入り口では迷彩服を着たNATOの軍人さんが三人立ち話をしていた。
中に入ってみると天井の高い、解放感のある建物で、資料が整然と並んでいる。「地球の歩き方」には展示はドイツ語のみとあったがそんなことはなく、ちゃんと英語が併記してある(たぶん改装前の情報を更新せずに載せているのだろう)。

壁際には写真や物品を展示しながらベルゲン=ベルゼンの成立ちが説明されている。

他の多くの収容所と同じく、ベルゲン=ベルゼンも最初はソ連人捕虜を収容するために建設された。連行されてきた捕虜の中には女性もいたらしい。その後ユダヤ人の受入れが始まったが、ここは主に連合軍の捕虜となったドイツ人との交換要員を収容する目的で使われたので、ガス室などの設備もなかったし、収容所の中では比較的ましな所として知られていた。
1944年秋になって状況が一変する。連合軍の侵攻から逃れるため、アウシュヴィッツなど前線に近い収容所の被収容者のうち比較的元気な者をドイツ国内に移送することになったからだ。ベルゲン=ベルゼンは各地から集められた収容者たちによってたちまち飽和状態となる。これらの人々の中に、アウシュヴィッツから移送されてきたアンネ・フランクとマルゴー・フランクも含まれていた。

アウシュヴィッツから苦しい旅のはてにここへやってきたアニタ・ラスカー・ウォルフィッシュはこう語る。「アウシュヴィッツでは人間が殺害されました。ベルゲン=ベルゼンではただ朽ちはてるにまかせたのです」
収容所の衛生状態は、言葉でいいつくせないほどひどいものだった。「収容所は全体が一つの下水道のようなものでした」と囚人医師ドクトル・レオは収容所の状態を語る。彼はここで発疹チフスや結核や、赤痢やコレラと絶望的な戦いを戦っていた。ぬかるみと、排泄物と、害虫の泥沼の中で、これらの病気はものすごい勢いで蔓延していった。
 …(略)…
この収容所で、黙示録さながらの歴史が最後の月を迎えたとき、日に日にうず高くなる死体の山との絶望的な戦いを、死体処理班はすでに放棄していた。ベルゲン=ベルゼンの元囚人ハンナ・レヴィ=ハスは秘密の日記にこう書いている。「生きていたり死んでいたりする他者の亡霊たちに囲まれて、わたしは残されたこの半分だけの命を使いはたしてしまうだろう。死体が、現実の死体が、いつも傍にある。ベッドに横たわっている」。寝台の上に、バラック棟の間に、道端に、死体が転がっていた。春の太陽で緑色に変色し、ありとあらゆる腐敗の段階を見せていた。強烈な悪臭は数キロメートル離れた所にまで達した。「あの臭いは表現のしようがありません」と、アニタ・ラスカー・ウォルフィッシュは語る。「ベルゲン=ベルゼンそのものが一個の死体の山でした。腐敗しかけている死体以外のなにものでもありませんでした」
 グイド・クノップ『ホロコースト全証言』pp.392-394

アンネ・フランクが最期に見た光景とは、このようなものであった。
彼女はその鋭い観察眼で、聡明な頭で、どのように目の前の現実と対峙したのだろうか。すでにペンも紙も奪われて久しかったが、彼女は頭の中のノートに何か書きつけたのではないだろうか。ものを書くことを習慣にしている人がみなそうするように。そこに書かれたのはどのような言葉だったのか。――私たちがそれを知ることは永遠にない。ベルゲン=ベルゼンが英軍によって解放された時、アンネ・フランクはすでにこの世の人ではなかった。

ホロコースト史の本の中に必ずと言っていいほど登場する、大量の死体が積まれた写真、あれは解放後のベルゲン=ベルゼンで撮られたものである。道端に転々と転がる死体。野原一面を埋め尽くす死体。死体の山を背にして煮焚きをする女性。風景の中に、当たり前のように死体がある。
英軍はこれらの死体を当初看守たちに手で運ばせていたのだが、それではとても間に合わず、疫病が蔓延するおそれがあったため、最終的にはブルドーザーで穴にまとめて投棄するという方法が取られた。
ある写真の前で足が止まった。丸裸の死体の山の中で、一人だけぶくぶくに着膨れている死者がいてやけに目立っている。他の死体からちょっと離れて、斜面に寄りかかるように横たわっているせいもあって、まるで足を滑らせて穴に落ちてしまっただけのようにも見える。ひどく残酷すぎるがゆえに現実味を欠いた光景の中で、その人の姿だけが妙に生々しい。

収容所全体の歴史と合わせて、収容されていた人たち個人についての展示がある。被害者を集合体ととらえず、一人一人の「体験」を伝えようという努力の跡が見られた。
その中にアンネ・フランクのコーナーもあった。ビデオでは、友人のハンネリ・ホースラルさんや、ベルゲン=ベルゼンで共に収容されていたヤニー・ブランデスさんのコメントを聞くことができる。

アンネ・フランクの展示とハンネリ・ホースラル氏

アンネの中学校の同級生で親友だったハンネリ・ホースラルさんは1943年6月20日に父と妹とともに逮捕されている。幸いパラグアイの旅券を持っていたので、捕虜交換要員としてベルゲン=ベルゼンに送られることになった。待遇は、一般の囚人に比べると多少ましなものだったようである。
その頃アンネはアムステルダムの隠れ家に潜伏していたが、1943年11月27日の日記で痩せこけたハンネリさんの夢を見たと記し、こう書いている。

おお神様、なぜわたしだけが望むものをなにもかも手に入れ、ハンネリはあんなに恐ろしい運命に陥らなくちゃならないのでしょうか。けっして彼女よりもりっぱな人間でなんかないのに。彼女だって正しくあろうと努めていたのに。なぜわたしは選ばれて生きのび、彼女は死ななくてはならないのでしょうか。
 『アンネの日記』p.258

しかし、現実に「選ばれて生きのび」たのはハンネリさんの方だった。
この日記を書いてから一年も経たないうちにアンネもまた逮捕され、ヴェステルボルク、アウシュヴィッツを経て1945年はじめ、ハンネリさんとこのベルゲン=ベルゼンで鉄条網越しの再会を果たす。立場は逆転していた。

それは私が知っていた同じアンネではありませんでした。彼女は打ちひしがれた少女でした。私もおそらくそうだったのですが、アンネはもっとひどかったのです。彼女はすぐに泣きはじめ、「私にはもう両親がいないの」と語りました。
 『アンネ・フランク 最後の七ヶ月』より、ハンネリ・ホースラルの手記(p.51)


ハンネリさんは赤十字から届いた物資を分けて鉄条網越しにアンネに投げる。しかしこの時は別の女性が包みを奪い取ってしまい、アンネの手には渡らなかった。数日後、ハンネリさんは再び試みて、今度はアンネに包みを渡すことに成功した。
それが1945年2月末のことで、二人が言葉を交わす最後の機会となった。
「アンネはお父さんもお母さんも死んでしまったと言いました。確かに彼女のお母さんは亡くなっていました――でもお父さんは生きていたのです。アンネはそのことを知らなかった。両親は死んだ、彼女はそう思いこみ、そしてお姉さんは重い病気にかかっている。もしお父さんが生きていると知っていたら、生きる力がわいてきたのではないでしょうか」
ハンネリさんはビデオの中でそう語っていた。語り口は穏やかではあったが、その中にいいようのない哀しみの色があった。おそらく彼女が生きている限り一生付き纏うであろう哀しみ。それはただアンネ一人を失ったことによるものではない。幼友だちの多くを殺され、最後には父親も病気で失って、たった一人で二歳の妹を抱えて生きなければならなかった。

2階の小部屋にはここに収容されていた人々の名を記した名簿が置かれている。
Fの頁にはFrank,Anneliese Marieの名が、その下に何人のも名前を隔てて、Frank, Margot Bettiの名前があった。
次にGの頁を開く。ホースラル一家の名前を見つけることができた。ハンス・ホースラルについては死亡日、二人の娘ハンネリとハビーについては解放された日と場所が記されていた。


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