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2005.9.27(火)

メディナ・デル・カンポ Medina del Campo

Triste España sin ventura,
todos te deben llorar;
despoblada de alegría;
para nunca en tí; tornar.

Hízote la más dichosa
para más te lastimar;
tus vitorias y triunfos
ya se hobieron de pagar.
Triste España sin ventura──Juan del Encina

朝8時25分、駅を目指して出発した。目指すはイサベル女王が亡くなった町、メディナ・デル・カンポ。
駅までは徒歩5分くらいだけど、帰りの時刻表をチェックしたかったので余裕をもってホテルを出たのだ。が、近道をしようとしたのがあだになって道に迷う。こ、ここはどこだ……。
前方から通勤途中らしいおばさまが歩いてきたので道を聞くと、親切に教えてくれた。どうやら曲がらなくともよい角で曲がってしまったらしい。つくづく自分の方向音痴が恨めしい。
駅に着くと出発8時40分だった。15分もさまよっていたのか……。

私が乗った8:46発の電車は、途中の駅にとまらず、まっすぐメディナ・デル・カンポまで行く電車だった。
しばらく走ると町並がとぎれ、またもやカスティーリャの大地である。畑が緩やかな隆起を繰り返してえんえん続く。今の時期はまだ緑があるけれど、冬ともなればさぞかし寂しい光景だろうと思う。イサベルが亡くなったのは11月の下旬だった。

電車から降りると、駅舎の向こう、斜め前方に小さくモタ城が見えた。イサベルが住み、また、娘フアナを幽閉しようとした城だ。
駅から続く道をひたすらまっすぐ歩いていくとモタ城に行き着くのだが、開場時間は11時なので、先に町の中心部プラサ・マジョールへ行くことにした。イサベルの亡くなった館はその一画にあるのだ。
十字路で右に折れて線路を横切る。このとき地下道に入るのでちょっと怖かったが、すぐに明るいところに出たのでほっとした。といってもメディナ・デル・カンポ自体に危険な感じは全くなく、落ち着いた小さな町という印象。


サン・ミゲル教会



■遺言の家 Palacio Real Testamentario


プラサ・マジョール

公式サイト

プラサ・マジョールに近づくと人がわらわらと増えてくる。通勤サラリーマン風の人や、赤ちゃんをベビーカーに乗せたお母さん、いぬの散歩をするご老人など。

メディナ・デル・カンポは今でこそ小さな町だけれど、かつては交易都市として大いに栄えた所である。広場周辺には王家の紋章を飾った古い建物が残り、かつての繁栄のあとを見るような気がした。
イサベルが亡くなった「遺言の家」の前に行ってみたが、準備中のようだ。入り口の脇のプレートには「スペイン世界の母にして創立者イサベル・ラ・カトリカがここに暮らし、死去した」というような意味のことが書かれている。
観光案内所で詳しい地図をもらい、それを見ながらベンチに座って待つ。
10分ほどすると係員らしきお姉さんが鍵を持って現れ、門と扉を開け放った。ほぼ同時に、スピーカーから音楽が流れ始める。グラナダ陥落を歌った古歌、《¡Levanta, Pascual!》(起きよパスカル)だ。

受付のお姉さんは英語が話せて、親切。オーディオガイドを借りて各部屋を回る。

Palacio Real、王宮と呼ばれてはいるけれど、とてもかの大女王の終の棲家とは思えない慎ましい館。
1504年、死の床にあったイサベルはモタ城からこの家に移され、ここで遺言を残して息をひきとった。
イサベルの年表や肖像画のパネルなどとともに、数バージョンの遺言書が展示されていた。最後の1枚に署名されたYo, la Reyna(我、女王)の字はへろへろで解読困難。死を目前にして、握力もかなり弱っていたのだろう。
しかも彼女は安らかに死んでいったのではなかった。
長男フアン、長女イサベル、孫ミゲルの相次ぐ死。
王冠を継ぐべき二女フアナは精神を病み、野心的な娘婿はフランドル人の側近を引き連れてカスティーリャに乗り込んで来ようとしている。アラゴン王である夫も信用できない……。
最期の最期まで王国の未来を憂え案じていた女王の苦悩を、何度も書き直された遺言書が雄弁に物語っている。


別の部屋には、エドゥアルド・ロサーレスの絵『カトリック女王イサベルの遺言』をもとにイサベル女王の寝室が再現されていた。この絵自体が画家の想像によって描かれていると思うので、本当にこの通りだったわけではないのだろうけど。


イサベルの胸像

トイレのドアの前には
おまる椅子が……

■モタ城 Castillo de la Mota

プラサ・マジョールを出てモタ城を目指す。
緩やかな坂道を上り切ると駐車場のようなだだっ広いスペースがあり、その向こうに城が聳えている。城に隣接して墓地がある。今でもここは町はずれなのだろう。

城のまわりをぐるりと回ってみた。
城壁を下から仰ぎ見て、その威容に圧倒される。周囲には空堀がめぐらされているが、柵もなにもなく、ただラベンダーが茂っていた。花はだいぶ色褪せている。

12世紀に築城されたモタ城は、その立地条件と堅固さから、高貴な囚人たちの牢獄としてたびたび利用されてきた。
フアナがこの城で軟禁状態に置かれたのは1503年のことである。
その前年、王位継承権の承認を受けるためフアナは夫フィリップ美公を伴って結婚後はじめての里帰りを果たしていた。しかしこの国の荒々しい気候と、質実剛健で謹厳な国民性を嫌ったフィリップは、フアナを置いて早々に帰国してしまう。
フアナは身重だったためカスティーリャに留まることを余儀なくされたのだが、出産がすんでもイサベル女王は娘の帰国を許さず、この城で監視状態に置いたのだった。
浮気性の夫が自分の留守中に繰り広げるであろう痴態を想像して、フアナは気も狂わんばかりになる。そして11月8日、ついにある行動に出た。

「…(略)…陛下がカスティーリャの女王なら、私はフランドルとブルゴーニュの女王です。娘という立場では、母上のご意向にそいたいのは山々ですが、妻としては夫の大公陛下に従わなければなりません。ですから、たとえ歩いてでも夫のもとに参るつもりです」
言うやいなや、フアナは女王にふさわしい服装(季節柄いささか軽装すぎるきらいはあったが)に身を包み、裏門に向かった。その威厳に満ちた姿を前にしてだれもがたじろぎ、あえて引き留めようとしなかったという。すでに夕暮れが迫り、戸外は凍えるほど寒かった。
このときふとフォンセーカ司教が、王女を城外に出さないよう、部隊を送って城の外堡をすべて閉鎖させることを思いついた。
…(略)…
それは一五〇三年十一月八日、その冬でいちばん冷え込みの厳しい晩だったという。フアナは外堡がすべて閉鎖されたことを知ると、フランスの方角に向いた外堡のひとつの前に居座り、一晩中、そして翌日一日中、そこから頑として動かなかった。
ホセ・ルイス・オライソラ『女王フアナ』pp.82-83(宮崎真紀訳,原題『狂女フアナ』)

数日後、セゴビアで臥せっていたイサベル女王が病身を押して駈け付け説得したが効果はなく、母娘の仲は決裂する。翌年の春、フアナは念願叶って夫と子供達の待つフランドルへ帰っていくが、それが母との永劫の別れとなった。イサベルはこの時を境に病状を悪化させ、その年の11月26日にプラサ・マジョールの王宮で死去する。

←フォンセーカ司教によって上げられてしまった跳ね橋。


フアナになったつもりで象眼からフランドル方面を覗いてみたが…
何も見えない



跳ね橋を渡って城壁の中に入った。
床はコンクリートと煉瓦できれいに舗装され、ここにフアナが座り込んでいたのかと思っても実感がわかない。
中庭を覗くと、堅牢な外観からは想像もつかないムデハル式の瀟洒な回廊が見えた。庭に面した部屋は居心地が良さそうだ。何かの公的機関が入っているらしく、中で人が働いている気配がする。


入り口近くに男性が立っていたので、挨拶して見学させてもらう。礼拝堂ともう一つの小部屋が公開されていた。
礼拝堂はごく質素なものだった。木彫のマリア像が愛らしい。イサベル女王もここで祈ったのだろうか。
先ほどの男性によると、室内はダメだけれど中庭の写真ならとってもいいよ、とのことだったので、何枚か撮らせてもらった。

フアナの他にこの城に幽閉された人物としては、ペドロ1世に疎まれた正妃ブランカ・デ・ボルボン、チェーザレ・ボルジア“あるいは優雅なる冷酷”などがいる。
フアナとほぼ同年代(フアナの方が3歳年少)のチェーザレは、フアナがフランドルに発った直後の1505年、彼女の父フェルナンド2世によってこの城に連行・投獄された。
その後なんとか脱出に成功し、妻の実家ナバーラに逃れて政敵である教皇ユリウス2世に対抗するが敗北、フィリップ美公と同じ1506年に31歳で戦死している。
彼はあの城のどこにいたのだろう、などと考えながら短い坂道を下って駅に向かった。

メディナ・デル・カンポ駅

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