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2004.9.28(火)

ブルージュ Brugge


愛の湖公園

ブルージュの駅についたのはちょうど13:00。
まっすぐザンド広場へ向かわず脇道に逸れると、並木道の果てに「愛の湖公園」というこっぱずかしい名前の公園がある。ブルゴーニュ公国の時代にブルージュの内港だった所。

ほんとに気持ちのいい朝だった! だから彼女は明るい陽に照らされながら、どんなに軽快な足どりで歩いていったことか! 彼女は鳥の啼き声や、すでに鄙びてきた町はずれの若芽の匂いに心を動かされていたが、このあたりではミンネワーテルの──「愛の湖」の謂だが、むしろ「恋をする湖」とでもしたほうがいいだろう──すばらしい景色が緑にかがやいていた。向こうには、夢うつつなこの池を前にして、はじめて聖体拝領をした少女の心のような睡蓮、小さな花々でいっぱいな芝生におおわれた岸辺、大きな樹木、地平のかなたに身ぶりたっぷりな風車などが見え、バルブはもう一度、旅に出たような、野をこえて少女時代に戻っていくような錯覚にとらえられた……
 『死都ブリュージュ』(pp.85-86)

このあたりには白鳥がたくさん遊んでいて風景にロマンティックな趣を与えているが、嘘かまことか、この白鳥には血なまぐさい謂われがある。
1482年、ブルゴーニュ公国の継承者マリー・ド・ブルゴーニュが亡くなり、ネーデルラントの諸州はマリーの夫であるハプスブルク家のマクシミリアン(オーストリア大公)の勢力下に置かれた。しかしブルージュ市民は「余所者」による支配に反撥して蜂起。オーストリアが遣わした執行吏ペーター・ランクハルスは捕らえられマルクト広場で斬首された。広場に面した建物に監禁されていたマクシミリアンは、自分の部下が殺される一部始終を見守るよう強要された。
数年後マクシミリアンは巻き返しを計る。武力でブルージュを制圧し、有力市民たちに懲罰を与えた。
この時報復の一環として命じられたのが、白鳥をブルージュ中に放すことだった。ランクハルスの紋章は白鳥であり、彼を殺したブルージュの悪行を永遠に記憶に留めるためだという。なお、ランクハルスは「長い首」を意味する。
マクシミリアンの制裁によって、それまでブルージュに与えられていた様々な特権は剥奪された。ほぼ同時期、港に砂が堆積しはじめたことも重なって、繁栄を誇った自由都市ブルージュの凋落が始まる。それはローデンバックが憂愁を込めて謳った「死の都」の誕生でもあった。

■ベギン会院(ベギンホフ)  Begijnhof

愛の湖公園を右に見てしばらく歩くと、正面にベギン会院の門と煉瓦の塀が見えてくる。
ベギン会入会にあたっては貞潔さが求められたが、俗世間との交流は自由であったし、個人財産の所有も認められていた。女子寮か規則の緩い老人ホームのようなものだろう。修道院風の折り目正しさを持ちつつ戒律は緩やかであったためその人気は高く、近世から近代にかけて、入会を希望する女性は後を絶たなかったらしい。
『死都ブリュージュ』に登場する老婦人バルブは、家政婦として働きながらお金を貯め、ベギンホフで余生を過ごすことを夢見ている女性である。


すでに、ここまでくれば教会の静けさがあった。湖にぽたぽたと流れ落ちる、外からの細々とした泉の水音も聞えてくるが、それはちょうど祈りをとなえる口のつぶやきのようだった。
そして、まわりはすっかり壁に囲まれ、聖体拝領台の掛け布のように白い修道院を低い壁が仕切っている。中央には、ヤン・ファン・アイクの牧場そのものの豊に密生した草むらがあり、そこではユダヤ教の踰越節に捧げられる小羊さながらの羊が一匹、草をたべていた。
聖女や至福者たちの名前のついている道は、曲がったり、ななめに走ったり、もつれたり、長くのびたりして、中世の小さな部落か、どこかよその、いちだんと生気のない町のなかに別に存在している小さな町の趣だった。
 同(pp.87-88)


クノップフが描いた石の橋を渡って門をくぐると、中央の緑の空間を囲むように建物が並んでいる。背の低い白


馬の水飲み場

壁の家々は愛らしく、静謐な空気とあいまってバルブのような女性の憧れをかりたてたことだろう。
ブルージュのベギン会院は現在はベネディクト会の女子修道院になっており、白い家は修道女たちの住居として利用されている。
地元の人らしき女性たちが、ベビーカーを押しながら散歩をしていた。

■メムリンク美術館 Memlingmuseum

相変わらず道が覚えられないので、でたらめに歩いていたら辿り着いた。ホテルでもらった割引券を見せて入場。
美術館として利用されている建物は、かつての聖ヨハネ施療院。貧しい病人の救済のためにブルージュ有力市民たちによって12世紀に建設された。
最近改修を終えたばかりの美術館内部は広々としていて明るい。
オーディオガイドを無料で渡されたのでなんと親切なことよと思ったが、中に入ってその理由が分かった。
展示作品には整理番号以外、なんの説明もついていないのだ。

『聖カトリーヌの神秘の結婚』
施療院がその名前を戴いている二人の聖ヨハネに捧げられた絵である。
聖母とアレクサンドリアの聖カタリナ、聖バルバラの描かれた主翼、絨緞などの室内装飾は15世紀当時のブルゴーニュ公国の風俗を盛りこんでいるようだ。メムリンクの描く女性は、ヤン・ファン・アイクのそれに比べるとやや堅い印象を受ける。
右翼には洗礼者ヨハネ。斬首されたヨハネとその首を与えられるサロメが同画面に描かれる。
左翼は黙示録の一場面、福音記者ヨハネを描いた絵の中で私がもっとも愛しているものの一つ。

聖女ウルスラの聖遺物箱
ベルギー七大秘宝のひとつと言われる(ほかの六つは?)。
ウルスラは4世紀ブリタニアの王女で、一万一千の処女を従えてローマ巡礼の旅に出るが、その帰路ケルンでフン族の手にかかって殉教した。『黄金伝説』にも収録された有名な伝承である。後にケルンの彼女の名を冠した教会から大量の人骨が発掘され、ウルスラの実在(?)が確認されたのだとか。
教会の形をしたこの箱は、それぞれの面にウルスラの物語が緻密な筆致で描かれている。

こうして、この殉教には彩色の音楽がともなう。というのは、やがて自分たちの墓となる岸辺に繋がれたガレー船に、群れなすアザレアのように集結されたこれら童貞女たちの死は、かぎりなく静かなものだからである。兵士たちは岸にあがっている。彼らはすでに虐殺をはじめていた。ウルスラと彼女の仲間たちは下船した。血が流れる。しかし、それは薔薇色そのものだ! 傷口は花弁さながら……血はしたたらず、胸からひらひらと舞いおちる。
 同(p.122)

聖遺物箱というからには本来聖女ウルスラの聖遺物(発掘された骨の一部でもあろうか)をおさめるために作られたはずだが、肝心の中身はどこにいったのだろう。

■聖母教会 O.L. Vrouwekerk

ミケランジェロの聖母子像を見るのもそこそこに、2.50ユーロ払って内陣に入る。
目当てはマリー・ド・ブルゴーニュとシャルル・ル・テメレールの霊廟だ。


ミケランジェロ作の聖母子像

ブルージュがもっとも栄えた14世紀から15世紀にかけて、この地はブルゴーニュ公領に組み込まれていた。
フランス王家の傍系でありながら、本家をも凌ぐ栄華を誇った公国である。
その起源は百年戦争の時代、フランス王ジャン2世が末子フィリップ・ル・アルディ(豪胆公)の武勲を称え、フランス・ブルゴーニュ地方を与えたこと。このフィリップがフランドル女伯マルグリットと結婚したことから、現在のベネルクスに相当する広大な領土が公国領に加わることになった。
ブルージュに宮殿が築かれたのは三代目フィリップ・ル・ボン(善良公)の時代である。この頃から公国の本拠地はフランス・ブルゴーニュ地方からフランドルへ移行した。
善良公の息子シャルル・ル・テメレール(突進公)とその娘マリー・ド・ブルゴーニュは特にこの町を愛し、マリーの息子フィリップ・ル・ボー(美公)の代まで、ブルージュは公国の最も重要な街となった。
ブルージュの宮殿が現存しないのはかえすがえすも残念である。

シャルル・ル・テメレール(突進公)はその名のとおり猪突猛進的に戦争を繰り返した君主だった。
フランドル地方とフランス王国内に飛び飛びに存在する領土をつなぎ、「ロタールの王国」を再現することを夢見てフランス王家と対立したが、志半ばにして戦死している。
シャルルは嫡男を持たなかったため、その死によって公国は危機に陥る。ブルゴーニュ地方はフランス王家に併合され、かろうじてフランドル地方だけが一人娘マリーの手に渡った。そのマリーも放鷹中の落馬事故により25歳で死亡する。
彼女は父が生前に定めた相手、神聖ローマ皇帝フリードリヒの息子マクシミリアンと結婚して一男一女をもうけていた。白鳥のエピソードにあるようないざこさはあったものの、結局ブルゴーニュ公位はハプスブルク家に渡り、マリーの息子フィリップ・ル・ボー(美公)からさらにはその長男カール五世へと受け継がれていく。

この地をこよなく愛した父と娘が仲良く並んで葬られているのは、彼ら自身というよりもブルージュ市民の意向が反映されているのだろう。ともに不慮の死を遂げた二人には自分の墓所について考える余裕もなかっただろうから。

なんとその墓は人の心を動かすことか! とくにあのやさしい王女は。彼女は掌をあわせ、クッションを枕にし、銅の服をまとい、忠節を象徴している犬に足を寄せ、石棺の長押に厳粛そのものの姿を見せている。
 同(p.26)

マリーは絶世の美女だったと伝えられる。肖像画を見る限りでは、ほっそりとして目鼻だちの小造りな、まさにメムリンクとかファン・アイクが描いたような楚々とした女性だ。
彼女の死がとりわけ悼まれたのは、華やかな文化を誇ったブルゴーニュ公国が彼女とともにほろびたような実感があったからではないかと思う。

棺のまわりをぐるっとひと巡りすると、マリーの足下がガラス張りになっているのに気づいた。覗きこむと石の墓穴がライトアップされている。内壁に絵が描かれているのがぼんやりと認められた。
説明書きによると、この中からマリー・ド・ブルゴーニュの遺体とともに長男フィリップ美公の心臓を収めた箱が見つかったのだという。
フィリップ美公は1506年、カスティーリャ王に即位した妻フアナとともに滞在していたスペイン・ブルゴスの地で病に倒れ、客死している。28歳の若さだった。
フィリップの「本体」はフアナがキープしていたため没後しばらくはトルデシーリャスのサンタ・クララ修道院に安置され、後にグラナダの王室礼拝堂に葬られているが、内臓は当時の習慣に従って取り出されフランドルに送られたのだ。
フィリップはスペインが嫌いだったようなので、心臓だけでも故郷の地に還ることができて良かったのではないかと思う。

フィリップ美公の
心臓


マリー・ド・ブルゴーニュの遺体

不明

Peter Calf
(1295)

Nicolaas van der Steende
(1331)


墓穴の配置と被葬者(案内板より転記)

■グルーニング美術館 Groeningemuseum


グルーニング美術館そばの店

聖母教会裏

ボッシュの『最後の審判』をはじめ、ファン・デル・ウェイデン、ファン・アイクなど規模は小さいながらかなり粒ぞろいの名作が揃っている。ガラス越しに修復作業が見学できる場所があったが、私が訪問した時には何も行われていなかった。
中に聖ウルスラの巡礼を描いた作者不明の絵があり、稚拙な筆致ながら、最後の場面がメムリンクの聖ウルスラの聖遺物箱を礼拝する人々で終わっているのが面白かった。


■公文書館(自由ブルージュ博物館) Civiele Griffie (Landhuis van het Brugse Vrije)


公文書館の外壁
ブルージュの紋章


何が見えますか?

続いては公文書館へ。二階のカール五世の暖炉を見学する。
カール像の両側に並ぶのは、彼に世界帝国をもたらした祖父母。左に神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世とマリー・ド・ブルゴーニュ、右にカスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世がいる。祖父母に比べるとはるかにスケールの小さい両親、フィリップ美公とフアナ1世は、カールの背後に小さな横顔の浮き彫りがあるだけ。
ヨーロッパ一豊かな公国の女相続人だったマリー・ド・ブルゴーニュには縁談が降るようにあったが、求婚者の中には後のアラゴン王フェルナンド2世(当時は王子)の名もあった。もしも彼ら二人が結婚していたら、カスティーリャとアラゴンの統一はなく、ハプスブルクの領土拡大もなく、その後の世界地図も大きく塗り変えられていたことだろう。



夜景のマルクト広場を見たかったので、いったんホテルに戻って明日のための荷造りを済ませることにする。が、ここで市庁舎に行き忘れていたことに気づく。自由ブルージュ博物館と共通チケットだったのに、もったいない…。明日、出発前に寄ることにしよう。

19時頃、マルクト広場に向かう。レストランには入りづらかったので、Craenenburg cafeというカフェに入ってビールとパスタ(一番量が少なそうだった)を注文した。
待ちながらランチョンマットがわりの紙を見ると、カフェの由来が書かれていた。
それによると、この建物こそ例のランクハルス処刑事件の折、マクシミリアンが幽閉された場所であるらしい。
またそれから遡ること数年、1468年にシャルル・ル・テメレールがイングランドから三度目の妃マーガレット・オブ・ヨークを迎えた時には、マルクト広場で槍試合が催され、新婦はこの建物の窓からその様子を見物したそうだ。

20時少し前、街灯に灯がともる。ビールを飲みながらブルージュ最後の夜を楽しんだ。




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