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2004.9.23(木)

アムステルダム Amsterdam


西教会とプリンセンフラハト

駅に降りると、けっこう強い雨が降っていた。傘はスーツケースの中なので、しかたなくそのまま歩いていく。濡れる。
公式発表(なんだそれ)ではフランスにしか行ったことがないということになっているが、実は私が初めて降り立ったヨーロッパの都市はアムステルダムであった。初めてフランスに行った20歳の時、KLMを利用したために経由地のアムステルダムで時間が余ったので、ほんの一、二時間ほど町をうろうろしたことがあるのだ。とはいえじっくり観光するほどの余裕はなく、地図もガイドブックもなかったので、ダム広場(今思えば)とシンゲルの花市(たぶん)をひやかすだけでニースに向かってしまった。
それでもなんとなく道を覚えている。


澁澤龍彦も泊まった!
クラスナポルスキー

宿泊はダム広場に面した超高級ホテル、クラスナポルスキー。
……の裏手にあるDORIA HOTEL
一応☆☆☆のはずなのに、全身で「安宿です。」と主張しているかのようなホテルだ。
しかしシングルで50ユーロからと、アムステルダム中心部にあるホテルとしては十分すぎるほど安いので、文句は言えない。
ホテルの真向かいには「paradise」というcoffeshop(大麻などを販売している店)があり、時々「見るからにジャンキー」なおじさんが奇声を上げながら通りすがってゆく。「アムステルダム来たぞ」という感じがする。

最小限の家具しかない狭い部屋に荷物を置き、アンネ・フランクの隠れ家に向かうことにした。この時点で16:00頃。

雨は小降りになっていた。
アンネの家まで、写真をバシャバシャ撮りながら歩いていく。最初はいちいち鞄からカメラを取り出していたが、しまいには面倒になって首から下げてしまった。地元の方々も「日本人=カメラ」というイメージを抱いているに違いないのだから、その期待に添うべく努力してやる。

シンゲル、ヘーレンフラハト、カイゼルフラハトと運河を三回渡って、西教会の塔が見えてきた。レンブラントはここの共同墓地に葬られているという。
中庭にアンネの像があった。13歳頃のアンネをモデルにしているのか、小さくて愛らしい像だった。


■アンネ・フランク・ハウス Anne Frankhuis


公式サイト

いつ行っても行列が出来ているというので覚悟していたが、時間が遅かったせいかすんなり入ることができた。

来訪者の増加に対応するために西教会までの一帯を記念館ですべて買い取ったらしく、本来の入り口とは違うところから入るようになっている。現在の入り口の前で写真を撮っている人が多かったのだが、本来の「隠れ家」は写真で言うと左から二軒目、緑色のドアの建物である。

中に入ってしまうと構造がわかりにくい(私が方向音痴だからというのもある)。
保存のためなのだろう、建物内部は照明が落としてあって薄暗い。写真撮影は禁止されている。
「表の家」の倉庫や社長室などを見学したあと、本で見覚えていた狭い階段を通って「後ろの家」に入った。
オットーとエーディトのフランク夫妻、娘のマルゴーとアンネ、ヘルマンとアウグステのファン・ペルス夫妻、息子ペーター、歯科医のフリッツ・プフェファー。以上の計八人が、かつてここで息を潜めるようにして暮らしていた。

入り口は本棚でカムフラージュされたドア。支援者の一人、ベップ・フォスキュイルのお父さんが作った本棚は、がっしりして頼もしい。その上には色あせた地図が掛けられている。この入り口が低めなので、頭をぶつける人が続出したのだという。

入ってすぐのところがアンネの両親と姉のマルゴーの部屋。8〜10畳くらいか。
入り口の左にマルゴーとアンネの身長を測ったあとがあった。
二人とも二年間で驚くほど身長が延びている。靴を履いた状態で160pあるかないかの私よりも少し高い。
アンネの写真は潜伏するまでの13歳までのものしか残っておらず、小さな女の子のイメージしかなかったので少し意外だった。
その横には連合軍の進行状況をピンで示した地図が貼ってあった。雑誌か何かから切り抜いたものらしく、とても小さな地図だったのがこれまた意外であった。

隣がアンネと、プフェファーの部屋。細長い部屋で、他人と一緒にここで過ごしたアンネもプフェファーもさぞかし窮屈な思いをしただろう。事実二人の間には諍いが絶えなかった。
壁には絵葉書や雑誌の切り抜きがたくさん貼られている。
映画スターはグレタ・ガルボ以外は知らない人ばかり。ダ・ヴィンチの自画像、ミケランジェロのピエタ、ルートヴィヒ2世とおぼしき肖像画、英国のエリザベス王女(現女王)、若きマドモアゼル・シャネルの写真も。
彼女が自分の手で貼り、毎日のように眺めて暮らしたであろう景色を目の当たりにしながら、まったく現実感を感じられずにいる自分に驚いていた。もっともそれは、今回に限ったことではないのだが。パリもヴェルサイユも津軽も、頭の中であれこれ考えていたときのほうがずっと親しく思えたものだった。実際にその場に立つと、拒絶されているように感じてしまう。この気持ちはいったい何なのだろう。

上階の見学者が動くたびに天井がぎしぎし音を立てる。60年前でも大差なかっただろうと思う。8人の緊張が伝わってくるような気がした。
この階にはトイレと洗面所もある。隠れ家でもお洒落を忘れなかったアンネはこの鏡の前に何十分も陣取り、同居人たちの顰蹙を買った。
トイレにはデルフト焼きのような愛らしい模様の便器が据えられていて、当時にしてなんと水洗。故障したときはアンネの父が四苦八苦しながら修理したらしい。

垂直に近いような急な階段をきしませながら昇る。
ファン・ペルス夫妻の部屋だ。昼間はみんなの居間として使われていた。ストーブと流しが残っている。
流しをのぞき込むと、水の当たるところが黒く変色していた。まるで濡れているように見えてぎくりとする。
流し台のすぐ脇に置かれたストーブは、アンネがおばあちゃんに買ってもらった万年筆を誤って投げ込んでしまった、そのストーブと同じものだろうか。それとも戦後に同じようなものをもってきて復元したのだろうか。摘発された潜伏ユダヤ人の私有財産はすべて没収されたと聞いている。
お気に入りの万年筆を燃やしてしまったアンネはがっかりしながらもその日の日記にこう書いて自分を慰めた。
「わたしもいつかは、火葬にしてもらいたいと思っていますから」

この記述はアンネのその後を知る者の胸を締め付ける。実際には墓碑も祈りの言葉も与えられず、数え切れぬほどの他人の死体と共に大きな穴に投げ込まれて朽ちていった彼女。

ペーターとアンネが語り合った屋根裏部屋には上がれない。老朽化が進んで危険なのだろう。
そのかわり鏡が置かれていて、様子が分かるようになっている。
アンネを幾度となく慰めた裏庭の胡桃の枝が風に揺れていた。雨はいつのまにか上がっている。

ガラス張りの渡り廊下を通って「表の家」に戻った。
日記のオリジナルや、収容所の様子を写したパネル、各国版の「日記」などが展示されている。

ミュージアムカフェでカプチーノとマフィンを食べ(ガラス張りなので見世物状態…)それからブックストアで本を二冊買った。「アンネ・フランク・ハウス ものがたりのあるミュージアム」(日本語版)と「Anne Frank and Family Photographs by Otto Frank」(英語版)。
オランダ語、ドイツ語、英語、フランス語などにまざって日本語版があることが、ここを訪れる日本人がいかに多いかを物語っている。
レジで「アンネ・フランク生誕75周年」と書かれた栞をもらった。
大昔の人のように錯覚してしまうけれど、アンネ・フランクは1929年生まれ。パレスチナ評議会のアラファト議長や人種差別と闘ったキング牧師と同年齢、と思うと感慨深い。私とだって50歳も離れていないのだ。

アンネより一歳年上で、第二次大戦当時パリに住んでいたユダヤ人リュシアン・ギンズブルク少年は、幸いにもナチの魔手から逃げ切り、のちに「ナチ・ロック」や「イエロー・スター」を発表した。戦後フランスを代表する歌手セルジュ・ゲンスブールである。


オットー・フランクの会社「オペクタ商会」が入っていた本来のビル。
一階は倉庫だった

18:00をまわってもう他のスポットはまわれなくなったので、写真を撮りながらゆっくりホテルに戻る。
シャワーを浴びて早めに寝るつもりだった。が、事件はそのとき起こった。
金属でできたシャワーの管が突然切れたのだ。落下するシャワーヘッド。足下でのたうち回るホースを見つめて呆然と立ちすくむ泡だらけの私……。
ただのホースと化したシャワーでもってなんとか泡を流し、フロントのお姉さんに泣きつきに行く。
「シャワーヘッドが、取れて落ちました……」(中学英語)
「え゛! ちょっと待っててね、今見に行かせるわ」
ということでおとなしく待機。しばらくするとアラブ系のおっさんが工具片手に現れ、ちゃちゃっとシャワーを交換してくれた。
どっと疲れたのでこのへんで寝ることとする。長い一日であった。


アール・ヌーヴォー様式のアーケード



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