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地図を見て初めて大浦天主堂を素通りしてしまったことに気づいた私。来た道の方を振り返ると、長い階段の先に、尖塔を持つ教会堂の姿が見えた。
大浦天主堂は幕末期の1864年、フランス人居留者のためにパリ外国宣教会によって建てられた(当時まだ日本人へのキリスト教禁制は解かれていなかった)。日本人の間では「フランス寺」と呼ばれていたという。教会堂は日本二十六聖人に捧げられ、西坂の方を向いて建っている。
階段脇の小広場には「信徒発見」のレリーフがある。
大浦天主堂を建設したプティジャン神父には一つの期待があった。長崎に来る前、那覇で出会った中国人男性から「日本には今でもひそかにキリスト教を信仰している人たちがいる」と聞かされていたのだ。
プティジャン神父は教会堂の正面に日本語で大きく「天主堂」の文字を掲げ、教会を一般の見物客に公開したのみならず、近隣の村に出かけていっては住民と交流したり、子供にお菓子を配ったりした。しかし信徒と名乗る者は現われなかった。
ところ変わってここは浦上村。
村人たちの間で「フランス寺にサンタ・マリアのご像があるらしい」という噂がささやかれていた。キリシタン禁制以来、何代にもわたってひそかに信仰を守り続けてきた人々である。彼らの間にはこんな言い伝えがあった。
・七代後にローマからパードレ様がやってくる。
・そのパードレ様は独身である。
・サンタ・マリアのご像を持ってやってくる。
実はこの三年前、彼らは東山手にできた新しい教会に行ってみたことがあった。牧師は彼らを歓待してこう言った。
「今度はご家族も連れてきなさい。わたしの妻も喜ぶでしょう」
聖公会の教会だったのである。
自分たちのコミュニティ内部だけでひたすら信仰を守ってきた住民たちには、キリスト教の宗派のことなど分からなかったけれど、「この方は違う」と確信し、落胆して帰ってきた。
でもフランス寺にはサンタ・マリアのご像があるという。もしかして今度こそ、私たちが待っていたパードレ様なのでは……。
そして運命の1865年3月17日がやってきた。
男女子供あわせて12〜15人ほどの一団が入ってきた時、プティジャン神父は祭壇に祈りを捧げていた。
私が、ほんの少しだけ祈ったあとでしたか……40歳ないし50歳位の婦人が私のすぐそばに来て、胸に手をあてて申しました。 |
この出来事はやがてヨーロッパにまで伝えられ、東洋の奇蹟として広く感動を呼んだ。
天主堂内部に入り、リブ・ヴォールトの天井の下を奥まで進むと、プティジャン神父が信者たちに示したマリア像が、今も右手の祭壇に安置されている。王冠を戴き、青いマントを羽織った優美な彩色彫刻だ。想像していたよりもずっと小さい。マリア像のすぐそばにはプティジャン神父の墓碑もあった。
大浦天主堂は、日本に現存する最古のカトリック教会であり、唯一国宝に指定されている西洋建築である。その外観も内装も間違いなく西洋建築なのに、本場フランスの教会にはない日本的な温かみがあるのは木造ゆえの特性だろうか。ステンドグラスも華麗なものではなく、あくまで素朴かつ可憐。
「日本之聖母」 |
明治政府によってキリスト教禁教令が廃止されると、プティジャン神父は神学校を設立し、安土桃山時代以後数百年ぶりの日本人聖職者の育成を目指した。
大浦天主堂に隣接するこの建物は、神学生たちの校舎兼宿舎として使われた。設計はド・ロ神父。
現在はキリシタン史料を展示する資料館となっているが、内部は昔のままであまり手を加えられていないようだ。
展示されている史料は踏み絵、メダイなどのほか、キリストの教えを分かりやすく伝えるためにプティジャン神父自身が描いた大きな版画もあった。
帰りに階段脇にある売店「おらしょの店」で栞を購入。大浦天主堂のステンドグラスの絵柄に、奇跡のメダイやクロスがあしらわれている。シスターが丁寧な手つきで紙袋に入れ、クリスマス仕様のシールを貼ってくれた。この栞は長崎巡礼センター公認グッズだそうで、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産への本登録をめざす運動の一環として販売されているようだ。
旧香港上海銀行 |
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