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■浦上天主堂

公式サイト

平和公園を出て川沿いをしばらく歩くと、小高い丘の上に赤煉瓦の浦上天主堂が見えてきた。江戸時代、ここには庄屋屋敷が建っていた。石垣は当時の遺構らしい。

坂を上って天主堂の手前右手に、「拷問石」と書かれた案内板と、その横に半ば土に埋もれるようにして茶色の石が置かれている。
大浦天主堂での「信徒発見」以後、信徒たちの中に公然と信仰を表明する者が出て来るようになった。檀那寺での葬儀を拒んで自らの手で家族を葬る例が相次ぎ、ついに浦上村の68名が逮捕された。これが浦上四番崩れの始まり。
江戸幕府から政権を引き継いだ明治政府もキリスト教を禁じ、1868年5月、浦上キリシタンの配流が決まった。キリシタンたちはこの流刑を「旅」と呼んだ。
拷問石は萩の堀内岩国屋敷にあったもので、信徒たちが雪の降る中全裸でこの石の上に座らされ棄教を迫られたという逸話が伝わる。はじめ牢番だった人の子孫が保管し、1990年以降は萩教会に安置されていたが、今年(2008年)の7月に浦上天主堂に譲渡された。案内板の日付は2008年11月23日。列福式の前日だ。除幕式にはローマ教皇代理のマルティンス枢機卿も出席し、拷問石を祝福した。

諸外国からの非難を受けて、明治政府がキリシタン禁令の高札を撤去したのは1873年のこと。
「旅」から戻った人々は元庄屋屋敷を買い取り、かつて絵踏みや拷問が行われていたこの場所に仮聖堂を立てる。そして30年以上の歳月をかけ、たいへんな苦労をしながら、ロマネスク様式の壮麗な教会を完成させた。
浦上天主堂自体が、浦上キリシタンの信仰の勝利の記念碑みたいなものなのだ。
しかしその記念碑も、あの原爆によって無残に破壊される。



現在元通りに復元された浦上天主堂の中で、戦前のままのものは、ファサードにある使途ヨハネと悲しみの聖母の像、そして鐘楼のアンゼラスの鐘だけである。アンゼラスの鐘は瓦礫に埋まっていた所を永井隆博士と山田市太郎氏によって掘り出された。

大浦天主堂と違ってここはほんの入り口までしか入ることができない。
確か神田のニコライ堂も同じような見学システムだったが、ステンドグラスも祭壇も遠すぎてよく見えないのは残念なことだ。あくまで祈りの場であって、観光のための施設ではないということなのだろうけれど。(信者の方は申し出れば中で祈ることができるそうだ。)
ここでもステンドグラスの栞を買った。

有名な「被爆のマリア」は右手のチャペルに安置されている。
チャペルでは信者さんたちが聖歌の練習をしている最中だったので、ドア越しに拝観した。
もとはイタリア製の彩色木彫だったそうで、被爆前の写真を見ると、ムリリョが描いた無原罪の聖母像に良く似ている。

被爆した聖像たち。熱線で黒く焦げている。
真ん中はキリストで間違いないとして、右の聖女は聖チェチリアだろうか。手に持っているものが壊れてしまっているので確信が持てない。左の像に至っては首も手ももげていて、まったく判別ができない。

旧天主堂の鐘楼。
爆風で転がり落ち、川に突っ込んだ形のまま保存されている。

原爆に直撃され、外壁の一部を残して崩壊した浦上天主堂を再建するため、ふたたび信徒たちは立ち上がった。そして戦後の物資難と人手不足にも関わらず、早くも1959年には旧天主堂とほぼ同じ形の現天主堂が完成したのである。
1981年には当時の教皇ヨハネ・パウロ2世が浦上天主堂を訪れ、ミサを行っている。

■如己堂

空模様はどんよりしているが、いつの間にか雨は上がっていた。それは良いのだが、暑い。この日は全国的に11月上旬並みの陽気だったのである。コートもコインロッカーに預けてくればよかったと後悔しながら、サントス通りを歩く。この辺りは静かな住宅街という感じで、小奇麗な家が立ち並んでいる。でも、これらの家の中に、1945年以前のものは一軒もないはずだ。


この通り沿いにあるのが如己堂。永井隆博士の住まいだった所だが、同時に「帳方屋敷跡」でもある。
江戸初期、宣教師・修道士たちが海外に追放され、国内に潜伏した宣教師たちも次々に殉教すると、一般信徒たちは自分たちで秘密組織を作ってキリストの教えや暦を伝えていこうとした。その組織の長が帳方である。帳方の下に洗礼を授ける役の水方、さらにその下に聞役を置いた。
帳方は世襲制で、永井博士の妻の緑さんはその末裔だった。

如己堂は二畳一間のごく小さな家で、自らも白血病と原爆症に苦しみながら医療に尽くした永井博士のために、地元の人たちが力を合わせて建てた。博士はここで療養生活を送りながら執筆活動を続けた。今は聖母像や永井博士の写真が飾られている。



■聖フランシスコ・ザベリオ聖堂跡


浦上に四か所あった秘密教会のひとつ。1868年7月15日幕府の捕方が押し入り、これが浦上四番崩れにつながった。

■ベアトス様


「お母さんを焼いた運動場」の詩に出てきた山里小学校の脇の道に入り、しばらく行くと、左手のやや小高い場所に「ベアトス様の墓」が建っている。将軍家光の時代に殉教したとされるジワンノ、ジワンナの夫妻と息子ミギルの記念碑だ。
役人が踏み込んできた時、夫妻は家にいたが、ミギルは草刈に行っていて留守だった。ジワンノは「しばらくお待ちください、倅はもうじき戻ってまいりますから」と言うと、新米を炊いて役人をもてなしたという。
三人はまず水攻めにされて棄教を迫られたが意思を変えなかったので、とうとう火刑に処せられることになった。ところが浦上の人々はみな火種を消してしまったので、役人は少し離れた淵村まで行ってやっと火種をもらうことができた。
「ベアトス」とはポルトガル語で福者を意味する。彼らは公式に教皇庁から認められた福者ではないが、300年以上にわたって地域の崇敬を集めてきた、人々の心の聖者なのだ。

ベアトス様の墓は原爆にも倒壊しなかったが、爆風で碑と台座が少しずれたそうだ。また、左側が熱線で黒く焼けているというが、雨に濡れていたのでよく分からなかった。


■サンタ・クララ教会跡



浦上川のほとり、大橋にほど近い場所に、サンタ・クララ教会跡の碑がある。1603年にスペイン人のアルバレス神父によって建てられた、浦上で唯一の教会だった(サンタ・クララ、ということはアルバレス神父はフランシスコ会士だろうか)。小崎登明氏によると、実際に教会が建っていたのはここから5,6メートル離れた場所であるらしい。
禁教令で教会が破壊された後も、信徒たちは毎年サンタ・クララの祝日(8月11日)には教会跡に集い、盆踊りを装って祈りの歌を歌った。

 家野は善かよか むかしからよかよ
 サンタ・カララの土地じゃもの


記念碑には聖クララ(アッシジのキアラ)像が刻まれている。聖クララは聖体を掲げて光明を発し敵を追い払ったというエピソードから、特に船乗りたちの崇敬を集めたそうだ。そういえばスペインやポルトガルにはサンタ・クララの名を冠した教会や修道院が多い気がする(印象論だけど)。

交通量の多い道路を挟んで反対側に、長崎県営野球場がちらっと見える。先月、列福式が行われた場所だ。


■山王神社



この神社にはかつて四つの鳥居があったが、原爆に遭い、三の鳥居と四の鳥居は倒壊する。爆風と平行に立っていた一の鳥居は完全な形で、二の鳥居は片足だけの姿になったがかろうじて残った。
その後昭和30年代に一の鳥居が交通事故で倒壊(えっ)。なぜかその後一の鳥居が再建されることはなく、現在は二の鳥居だけが原爆の生き証人として残されている。
崩壊したもう片方の部分も近くに横たえられていた。


山王神社境内にある、樹齢500年以上と言われる大楠。
原爆で丸裸になり、枯死しただろうと思われていたが、次第に樹勢を盛り返し復活した。その力強い姿は復興への力になったことだろう。同じように広島では夾竹桃がいち早く花をつけ、市民に希望を与えたと聞く。
幹を樹脂で補修されているのが痛々しいけれど、見事に葉を茂らせている。

神社の前の通りには旧長崎街道の碑が建っている。
二十六聖人もこの道を通って西坂の刑場に向かった。途中、山王神社で休憩を取ったと言われている。
長旅に疲れ果てた彼らの姿も、あの楠は見ていたはずだ。

後日の話になるが、両親に鳥居の写真を見せたら「あらこれ新婚旅行で見たわ」と言われた。
彼らが結婚したのが1976年だから、その時点で被爆から30年ほどしか経っていなかったことになる。それからまたほぼ同じだけの歳月が流れて、二人の子供である私がやって来た。
終戦当時、高度経済成長期、そして21世紀の現在と周囲の景色は様変わりしたのだろうが、一本足の鳥居は変わらずここに立っている。これからもそうであってほしい。くれぐれも交通事故には気をつけて……。

■リベンジならず

さて、長崎市内の見学をほぼ予定通りに終えた私だが、ひとつ心残りがあった。
初日に気後れして見逃した本蓮寺の南蛮井戸である。次にいつ来られるのか分からないことを考えると、やっぱり見ておきたい。
再び降り出した雨の中、階段を上って本蓮寺の門をくぐる。すると何やら黒い服を着た集団が。
法事やってる………!
さすがに法事の最中に「井戸見たいんスけど、ヘラヘラ」と申し出るわけにもいかず、すごすごと退散。
いつか絶対にリベンジしてやる…。

駅に向かう途中にあったカラカスという喫茶店に入り、トルコライスを注文した。何の予備知識もなく入ったお店だったがこれがなかなかの当たり物件で、カリッとしたカツが大変美味しかった。
店内はちょっと薄暗く、ノスタルジーさえ感じさせる昔ながらの喫茶店風内装。私の他にはサラリーマン風の男性が数人憩っていた。

電車を待つ間、駅ビルでお土産を物色。ストラップがたくさんある。
しかしご当地キティちゃんやご当地キューピーはともかくとして、どうにも解せないのはご当地まりもっこりである。北海道内ならまりもっこりというネーミングも通用するかもしれないが、全国展開してしまったらそれはもはやただの緑色のもっこりした人ではないのか。そして「ザビエルもっこり」は教皇庁的にはOKなのかなどなど疑問は尽きない。
ザビエルもっこりを見つめて悩んでいるうちに発車時刻がやってきたのでホームに移動する。もっこりは買わなかった。

ついに長崎市に別れを告げる時がやってきた。向かうは大村市。利用したのは快速シーサイドライナーで、千々石に行く時に乗ったのと同じ電車だ。シーサイドという割にはトンネルが多く、風景はあまり楽しめない。




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