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大村


ああいま群集はどこへ行つたか
かれらの幻想はどこへ散つたか。

 萩原朔太郎「かつて信仰は地上にあつた」(『蝶を夢む』より)


■大村市立史料館

大村駅で下車。相変わらず雨は降り止まない。どしゃぶりというほどではないが、傘なしで歩けない程度には降っている。
とりあえず、駅前の市立図書館二階にある史料館を目指す。メダイや踏み絵などのキリシタン史料を展示していると聞いていたのだが、この日は幕末の大村藩に関する企画展をやっていて、キリシタン史料は見当たらなかった。藩主夫人の豪奢な着物を見られたのは良かった。

史料館の建物を出ようとした時、前の公園から音楽が聞こえてきた。見れば天正遣欧使節のからくり時計がちょうど動き始めた所。あわてて近寄ろうとするも傘が傘立てにひっかかって抜けず、もたもたしているうちに天正遣欧使節の人形は引っ込んでしまった。無念……。

からくり時計は天正遣欧使節の一行がヨーロッパについた時に最初に目にしたであろう、リスボンのベレンの塔を模している。

時計の周辺には、長崎から始まってマカオ、マラッカ、ゴアなど、彼らが訪れた世界の都市がタイルで紹介されている。


「勇気ある少年たち」


トレドのタイル

なぜトレドのタイルしか撮ってないのかというと、私が行ったことがある場所がここだけだったから。
私もいつかローマを見たい。ポルトガルにも、マカオにも行ってみたい。使節の皆さんは偉大な先達である。
カメラスポットを探して時計の周りを徘徊していたら、手が滑って買ったばかりのカメラを落としてしまった。しかも水溜りの中に。幸いカメラは無事起動したが、真新しいパッケージにはしっかり傷が。悲しいが、後で「ああ、この傷は2008年の12月21日に大村の天正夢広場(という名前なんです)でつけたものだわ」と、旅の思い出を呼び覚ますよすがとなるので良しとする。(←ポジティブシンキング)

さてこれからどうしよう。
降りしきる雨の中、ボストンバッグを抱えて私は考えた。
出発前の段階では全行程晴れの予報だったので、最終日は大村喜前の居城だった玖島城址に行って、それから後は時間を見てキリシタン史跡を適宜見学するつもりだった。しかし予定外の悪天候である。
この雨の中荷物を持っての大移動は厳しそう。でもせっかくの史跡を目の前にして空港に直行するのはあまりに惜しい。せめて放虎原殉教地と妻子別れの石と天正遣欧使節顕彰像だけは見たい。
今までの人生で得た教訓が脳裏によみがえる。

 「買い物は迷ったらやめておけ。旅行は迷ったら行っておけ。」

地図を確認する。一番遠い目的地である天正遣欧使節顕彰像までおよそ3km。
行ける。
ボストンバッグと傘を持ち直し、私は海の方向に向かって歩き出した。

しかしなんというかこの風景は……懐かしい。私が育った町と雰囲気がそっくりである。どうして日本の地方の町というのはどこもこう似ているのだろう。
そしてこれまた私の故郷と同じなのだが、歩いている者がいない。私は高校時代、町を歩く姿を知り合いに目撃され、「あんた昨日○○通り歩ってた(方言)でしょ!?」と言われたことがある。歩ってて(方言)悪いですかと言いたいところだが、地元では人間は車かバイクか自転車で移動するのが普通なので、徒歩で移動しているだけで珍しがられるのである。
この日は多分天気が悪かったせいもあって、大村の通りを歩いている間、自分以外の歩行者にはまったく出会わなかった。

しばらく行くと、右手に長い塀が見えてきた。大きく「本経寺」の標識がある。大村家の菩提寺だ。せっかくなので、寄り道してみることに。

■本経寺

本堂前では何か燃やしていた。け、煙い…。
煙を避けるように墓所に入った。

戦国時代にこの地を領した大村純忠は、日本最初のキリシタン大名と呼ばれ、ドン・バルトロメオの霊名でヨーロッパにまで知られた人物である。長崎を開港し、港周辺の土地をイエズス会に寄進したのもこの人。キリスト教に傾倒した彼は寺社を打ち壊し、家族、家臣はもとより領民にも改宗を強いた。結果、大村は住民のほとんどがキリシタンという、キリスト教王国になった。
純忠の嫡男喜前もまたサンチョの名を持つキリシタンであった。しかし家督を継いで間もなく秀吉がバテレン追放令を発布、さらに世の趨勢がキリシタン排除に向かうのを見て、おそらくは政治的判断から、信仰を棄てて日蓮宗に改宗する。その証として教会跡地に建てたのがこの寺だ。


墓所には巨大な墓碑群が林立している。
これらの墓碑は、大村家が仏教徒として再出発したことを内外に示すために、つとめて大きく作られたと言われている。一番大きいもので7メートルほどもあるという。

父純忠によるキリスト教への大改宗政策から、今度は180度転回して仏教への大改宗政策。並大抵のことではなかったはずだ。
元キリシタンの「ドン・サンチョ」としては葛藤もあっただろうが(二十六聖人が殉教した時、喜前はわざわざ長崎へ出向いて海上から殉教者たちを遥拝している。信仰心がなかったわけではないのだ)、この人は現実的な感覚を持った政治家だったのだろう。
信仰を貫いて追放された高山右近のような人も立派だが、喜前のような人も社会には必要なのだと思う。特に群雄割拠の乱世から中央集権国家が成立するまでの過渡期のような時代には。結果として彼は幕末まで200余年存続する大村藩の礎を築いた。


大村喜前の墓

中央あたりに喜前の霊廟があった。
ちなみに喜前の父純忠の墓所は不明である。坂口館で逝去した純忠は、宝生寺(御宿りの聖母教会)に葬られ、その後草場寺、そして最終的に本経寺に移されたことになっているが、現在彼の墓はここにはない。

墓所入り口にはお墓の見取り図が設置されている。
端のほうに大村家家臣の小佐々某という人の墓があったが中浦ジュリアンの縁者だろうか。小佐々はジュリアンの生家の名である。


塀越しにもお墓の頭が見える

大村藩に伝わる各史料によると、喜前にバテレンの害悪を告げ、その追放を進言したのは、千々石ミゲル清左衛門だったということになっている。大石一久氏らが言うように、大村藩は追放政策をミゲル一人のせいにして処理しようとしたのかもしれない。ミゲルは藩を追われ、キリシタン迫害の責任はすべて彼の肩に負わされた。
しかし厳しい見方をするなら、結局はミゲル自身にこの難しい状況を乗り切っていく器用さがなかったということでもあるのだろう。
だってミゲル、要領悪そうなんだもん。
たとえば以下はフロイスが書き残した、帰国後のミゲルと豊臣秀吉の謁見の様子なのだが、このわずかな記述からミゲルの人となりが見えて来ないだろうか。

(関白は)汝は有馬家の一族かと問うた。彼(ミゲル)は自分の素性を関白に明かすと、有馬殿の身になんらかの支障が生じはせぬかと懸念して、それを知らさぬように遁辞を用い、千々石の者であると言った。関白が再び、千々石は誰の領地にあるかと質したので、彼はそれが有馬領にあることを偽るわけにはいかなかった。すると、さらに関白が、汝は有馬殿の親戚の者かと質問したので、自分の父は、有馬家と少しく縁続きであるらしいと返答した。結局、関白に対して虚言を弄することなく、素性を明かさずに済んだ。だがこうしたことを知った関白は、これら下の諸侯は、バテレンたちやインド副王と深く交わっているようだと言った。

読んでいる方が冷や冷やする。結城了悟師はここに「ミゲルのはっきりしない性格が見事に描きだされている」と書いた。私も、一事が万事、こうだったのではないかと思うのである。
ミゲルは上手くすればファビアンのように仏教に取り入って出世することもできる立場にあった。しかし結局はキリシタンからは裏切り者として恨まれ、仏教徒からもイルマン崩れの信用ならん奴として睨まれ、両方の勢力から敵視されるようになってしまった。世渡り下手だったばかりに。
……などと書くと私がミゲルを嫌って批判しているように思われるかもしれないが、そんなことはなくて、それどころか私はミゲルのことが大好きです。そうでなければわざわざ半日潰して墓参りに行ったりしない。

■妻子別れの涙石

とかなんとか言っているうちに国道34号線に突き当たった。
この角を左に曲がって国道沿いを行けば、妻子別れの涙石があるはず。
キョロキョロしながら歩いていくと、「史跡 妻子別れの涙石」の大きな案内板が目に入った。おお、ありがとう大村市。
指し示されているのは私道かと思うような細い道だった。案内板がなければ通り過ぎていただろう。
改めて大村市に感謝しながら家々の間を縫うように進むと、まるい大きな石が姿を現した。


1657年の「郡崩れ」の時、大村で処刑されることが決まった131人のキリシタンたちが、ここで家族と別れの水盃を交わした。滴り落ちる涙に濡れた石には決して苔が生えないとされる。
しかし、このあたりはいったいどういう土地なのだろう。
涙石の周りは墓地になっていて、比較的新しいお墓が多いようだが、年季の入った墓石が乱雑に積みあがっていたりもする。
その中に、「大村マリナ伊奈姫の墓」と金字で書かれた墓碑がある。

マリナ伊奈姫は大村純忠の長女で喜前の姉。敬虔なキリシタンで、禁教令後も棄教を拒み、戸根に結んだ庵に宣教師を匿ったりしていた。彼女の孫の淺田安昌は庵のあった場所に自證寺を建て、祖母の菩提寺とした。
実はこの自證寺に、伊木力墓石の被葬者二名の位牌が保管されているのである。また伊木力墓石の立つ土地は淺田家の領地でもあった。
淺田安昌の妻は千々石玄蕃の長女(つまりミゲルの孫娘)テイである。淺田氏が不遇の千々石氏を援助するとともに、ミゲル夫妻の供養を続けていたのではないかと大石一久氏は推測している。

■放虎原殉教地…のはずが

涙石とマリナ伊奈姫の墓に別れを告げ、放虎原殉教地に続く(はずの)横道に入った。吹き付ける向かい風の中、傘を体の前面に傾けて、必死で歩く。


相変わらず人がいない

ところが、行けども行けどもそれらしき場所が見つからない。
やがて大きな通りに出た。運転免許試験場がある。地図を確かめると、放虎原殉教地はすでに通りすぎてしまったようだ。
おかしい。かなり大きな記念碑があるそうだし、見落とすなんて考えられないのだが。それに、大村市のことだからきっと案内板を設置してくれているはず。
バス停があったので、雨宿りをしながら地図とにらめっこする。
このままバスに乗れば、空港まで行くことができるが……。
バス停を離れ、来た道を戻ってウロウロと殉教地を探す。やっぱり見つからない。17時をまわって辺りはどんどん暗くなってくる。ここでタイムリミットとなった。

泣く泣く放虎原殉教地を諦めて、せめて最後に天正遣欧使節の像を見に行くことにした。

■天正遣欧使節顕彰の像


すっかり日も暮れた

今度は迷わずにたどり着けた。
左から伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルティノ、中浦ジュリアン。
天正遣欧使節400年を記念し、四人とゆかりの深い大村市、波佐見町、千々石町、西海町が資金を出し合って建てたそうだ。四人の背後には船のモニュメントがある。

さて、像を見られたのはいいけど、これから私、どうやって空港に行くのかな。あはははは。
長崎空港のある箕島と大村市は連絡橋で結ばれている。天正遣欧使節顕彰の像があるのはその橋のたもと。


光ってるのが空港

ちくしょう、歩いて行ってやるよ!
しかし、橋の途中まで来て後悔した。雨はほとんどやんでいたが、風が凄まじい。海の上まで来ると、さえぎるものがないのでますます風は強くなった。こんな強い風圧を体験したのは初めてだ。
すぐ左側の車道を車が猛スピードで走っていく。右の手すりから下を見れば真っ黒い海がうねっている。左に落ちても右に落ちても命はない。
死の淵を覗いた……気がした。
でも、一番怖かったのは車道を行き交う車の運転手さんたちだと思う。暗い橋の上を長い髪を振り乱した女が歩いているって相当怖いぞ。幽霊だと思われても文句は言えない。
空港は正面にはっきり見えているのだが、進んでも進んでも海の上である。後で知ったのだがこの連絡橋は約1キロあるのであった。
もう少し、もう少し。
空港の明かりがだんだん近づいてきた。


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