東京のキリシタン史跡

長崎ほど豊富ではないが、東京にもキリシタン史跡がある。年が明けて2009年1月、週末を利用してそのいくつかを訪問してみた。

■札の辻と「元和キリシタン遺跡」の碑


JR田町駅西口または都営三田線三田駅を利用し、品川方面に歩くこと約300メートル。「札の辻」の交差点が見えてくる。
札の辻という地名は全国各地にあるが、いずれも高札場だったことに由来しているようだ。ここ、三田の札の辻は東海道から江戸への正面入り口で、今も昔も変わらぬ交通の要所である。


札の辻の歩道橋より


1623年三代将軍に就任した徳川家光は、江戸に集まっていた諸大名への示しとしてキリシタンの火刑を命じ、12月4日、50名がこの地で処刑された。昨年2008年11月に列福された原主水もその中に含まれている。


現在、住友不動産三田ツインビルの敷地内に「元和キリシタン遺跡」の碑が置かれている。碑は広場の奥、広くゆるやかな階段を上りつめた先にある。
この階段は済海寺方面への抜け道にもなっているようで、通る人が時折足を止めては案内板に見入っていた。

■小伝馬町江戸牢屋敷跡

地下鉄小伝馬町駅から歩いてすぐ。
1606年に設立されてから1875年に廃止されるまで、数多くの囚人がここに収容された。前述の原主水も札の辻で処刑されるまでの日々をここで過ごしている。また慶長遣欧使節とともにローマに赴いたソテロ神父も一時収容されていた(ソテロ神父は1624年に大村で殉教)。
もっともキリシタン専用の牢獄だったわけではなく、一般には吉田松陰の終焉の地として知られている。

牢屋敷は非常に広大で、現在の十思公園、大安楽寺を含むあたり一帯が跡地だという。


大安楽寺

大安楽寺は、刑死した人々の菩提を弔うために建てられた。道路に囲まれた敷地一杯に本堂や庫裡が建っていて、「都会のお寺」といった趣き。一角に「江戸傳馬町牢御椽場跡」の碑が立つ。

188福者の代表格、ペトロ・カスイ岐部はこの小伝馬町の牢内で殉教した。
豊後国国東郡生まれ。有馬のセミナリヨを出て同宿として教会で働いていた時に禁教令に遭い、他の多くの宣教師と共にマカオに亡命する。この地でイエズス会入会と司祭叙階を目指すが叶わず、単身ローマ行きを決意した。
インド、パレスチナを経て陸路ヨーロッパへ。隊商に混ざり、砂漠を歩いて、三年後にローマの地を踏んだ。
天正遣欧使節や慶長遣欧使節の旅が添乗員つきツアーなら、岐部のそれはまさにバックパッカーである。この時代「添乗員つきツアー」であっても、生きて帰ってこられない可能性の方が高かった。岐部の旅がどれほどの大冒険だったかは推して知るべしである。 現代人の私でも、同じ旅をしろと言われたら躊躇う。いや、間違いなく私には無理だ。
さて、ローマで晴れて司祭に叙任された岐部神父だが、そこで満足する彼ではなかった。ポルトガルから、今度は海路をとってアジアへ。そして禁教下の日本に潜入するのである。彼の胸には宣教へのやみがたい情熱が燃えていた。
8年間の地下活動の末、1638年3月、岐部神父は捕縛される。その身柄は井上政重に預けられた。

二十六聖人の処刑から40年が経ち、政府はキリシタンを華々しく殉教させるのは望ましくないと考えるようになっていた。英雄的な死はキリシタンたちのヒロイズムを刺激し、かえって信仰心を強めることにもなりかねない。
そこで考え出されたのが、穴吊りに代表される拷問だった。
甚だしく苦痛を伴う、見た目にもみじめな刑罰。苦しみに耐え切れず転んでくれればなおよい。神父が転べば一般信徒も後に続くだろう。

しかしこのやり方は、岐部神父には通用しなかった。
この小伝馬町の牢屋敷中庭で穴吊りの刑に処せられた岐部神父は、決して信仰を棄てようとせず、それどころか一緒に吊るされた信者を励ましつづけたので、最後は穴から引き上げられて斬首された。
井上政重は書き残している。

「キベヘイトロは転び申さず候。吊し殺され候。是はその時分までは不巧者にて、同宿二人キベと一つ穴に吊し申候故、同宿ども勧め候故、キベ殺し申し候」

この短い文の中に、自身も元キリシタンであったとされる井上の、岐部神父に向けた敬服の念が垣間見えるように思うのは、うがちすぎだろうか。


十思公園

「松陰先生終焉の地」の碑がある。
左上の鐘楼内にあるのは江戸最古の時の鐘、「石町時の鐘」。

これは小伝馬町駅の階段を上がった途端に目に飛び込んできた看板。イルマンだと…!? ポルトガル語のイルマン(修道士)と関係があるのかどうかは不明。



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