■フェレイラ(沢野忠庵)の墓

殉教地だけがキリシタン史跡ではない。英雄的な殉教者のかげには多数の転び者がいた。日本のキリスト教の歴史は殉教と棄教の歴史である。
クリストヴァン・フェレイラはポルトガルのジブレイラに生まれ、イエズス会宣教師として1610年頃より日本での布教にあたった。禁教令後の苦難の時代にあっても国内に潜伏して信者を励ましつづけ「天使のごとき」神父と称賛された。
その彼が転ぶと、誰が予想しえたであろうか。

1633年10月18日、フェレイラは中浦ジュリアンら七人の仲間とともに長崎の西坂で逆さ吊りにされた。
遠藤周作は深い同情を込めて語る。

「五時間後」、混乱した意識のためにフェレイラは理性を失いつつあった。この瞬間ほど人の一生の中で怖ろしい瞬間はない。フェレイラは二十数年前、アフリカの南端を渡り、嵐や病気や飢渇に耐えながら日本に渡った理想の時代を今、失おうとしている。多くの日本人に布教し洗礼を与え、説教をした輝かしい時代を今、失おうとしている。迫害下にあってなお日本に潜伏し、皆を励まし、平戸の浜で祈った勇ましい時代を今、失おうとしている。そして彼はその瞬間、それらすべてを失ったのである。
  遠藤周作『切支丹時代』 (小学館ライブラリー)pp.114-115


棄教後のフェレイラは刑死した沢野某という男の名前と妻をあてがわれ、沢野忠庵と名乗ってキリシタン目明しとして取締に協力した。
沢野忠庵となったフェレイラがペトロ・カスイ岐部神父と対面させられた時の逸話が残っている。この時、岐部神父は臆せずフェレイラを非難し、信仰に戻ることを勧めたので、フェレイラは「白洲から身を隠した」という。想像するだに哀れな姿である。

フェレイラは1650年11月4日に長崎で死んだ。
その墓ははじめ長崎の皓台寺にあったが、のちに品川の東海寺に移され、さらに、戦後になって谷中の瑞輪寺に改葬されたという。
フェレイラの墓を求めて私は瑞輪寺を訪ねた。


瑞輪寺

瑞輪寺は谷中で一番大きな寺で、開基檀越は徳川家康。葵の御紋の使用を許されていることからもその寺格が伺える。
史跡として大久保主水の墓があることで知られており、その説明板はあるのだが、フェレイラについては何の案内もない。
広大な墓地を見てくじけそうになりつつも、片っ端から探すことにした。
フェレイラの墓は女婿・杉本忠恵の墓に合葬されているということなので、目印は「杉本」姓である。

立ち並ぶお墓たちからの「なんなの? コイツ…」という視線を一身に浴びながら、墓碑に刻まれた名前をチェックして行く。毎度怪しくてすみません。

「杉」という字が見えたと思ったら杉村さんだったり、「本」があったと思ったら松本さんだったり、フェイントに翻弄されながら探し続けて約20分後。
ついに「杉本家」墓所を発見した。
しかし本当にこの杉本さんで間違いないのだろうか? 
メインの墓碑のまわりにたつ、やや年季の入った墓石の側面をひとつずつ確かめる。その中に「忠庵浄光先生」の名前を見つけた。
間違いない。ここがフェレイラのお墓だ。

(墓所全体の写真も撮ったのですが、ご子孫とはいえ一般の方のお墓ということで掲載は見合わせました)

同じ墓碑の前面。「初代 智法庵法橋忠惠宗信居士」として、フェレイラの女婿、杉本忠恵の戒名が刻まれている。
女婿とあるが、娘というのがフェレイラの実子なのか、それともあてがわれた妻の連れ子なのかは不明。フェレイラが転んでから亡くなるまで17年、娘をもうけて婿取りをするにはちょっと忙しい気がするので、義理の娘ではないかと思うのだが確証はない。
杉本忠恵はフェレイラ門下の医師で、のちに幕医を務めた。
フェレイラは目明しをする傍ら、日本人に南蛮医学を伝えたのだ。人々の役に立ちたいという宣教師的な気持ちが残っていたのだろうと、遠藤周作は書いている。


■小日向切支丹山屋敷

フェレイラ棄教の知らせが届くとマニラのイエズス会は騒然となった。彼の罪を贖い、また日本の信徒にあらたな指導者を与えるべく、そして、おそらくは半ばヒロイズムにかられて、宣教師の集団が二つのグループに別れて日本へ向かう。
第一陣のアントニオ・ルビノらは捕らえられてことごとく殉教。
対して、第二陣のジュゼッペ・キャラらは詮議の末に転んだ。
キャラはフェレイラと同じように、岡本三右衛門という死刑囚の名と妻を譲り受け、小日向(現在の文京区小日向1丁目)の井上政重の下屋敷内に幽閉される。やがてこの屋敷は転びバテレンの収容施設として利用されるようになり、キャラも40年以上をここで過ごした。
彼がここで何を思って暮らしていたのかを示す史料はほとんど残っていないが、遠藤周作はそのわずかな記録から想像力を膨らませて、『沈黙』を書いた。
切支丹屋敷の最後の住人となったのがジョヴァンニ・シドッチである(シドッチについては長崎旅行記で触れたのでここでは割愛する)。シドッチの死後まもない1724年に切支丹屋敷は火災で焼失し、その後は宣教師が来ることもなかったため、ついに再建されなかった。
今は閑静な住宅街の中に十字架を形どった碑が立つだけ。何も知らなければ気づかず通りすぎてしまうようなひっそりとした碑である。碑文はすり切れてほとんど判読できない。

■切支丹坂



切支丹坂


茗荷谷は坂の多い土地である。長崎のように山際から規則正しく下る坂と違って、東京の地形は脈絡もなく隆起し沈降しているようで、方向音痴の私はしばしば方角を見失いそうになった。
切支丹屋敷跡のすぐ横の坂は「切支丹坂」と呼ばれている。


庚申坂


切支丹坂の向かいにあるのが庚申坂。かつては切支丹坂と混同されていたそうだ。確かにこちらの方が風情があり、「切支丹坂」という名が持つエキゾチックな、そしてやや伝奇的なイメージには相応しいような気がする。

このあたりの主だった坂には案内板が設置されているので、地図片手に坂巡りをするのも楽しい。
庚申坂上の案内板には以下のような歌が紹介されていた。

 とぼとぼと老宣教師ののぼりくる 春の暮れがたの切支丹坂 (金子薫園)



■キャラ(岡本三右衛門)の供養碑

キャラは1685年に死去し、切支丹山屋敷に程近い小石川の無量院に葬られた。無量院は家光の側室、永光院お万の方の菩提寺であるが、明治に入って廃寺となっている。
無量院があったとされる場所は、伝通院の裏手、現在の住所で言うと文京区小石川三丁目あたり。付近を歩いてみたが、入り組んだ道にマンションや住宅が立ち並び、本堂跡地を探し出すのにも苦労した。

無量院が廃寺になった後、キャラの墓は雑司ヶ谷に移されるが、子孫と名乗るイタリア人がやってきて墓石を持ち去ったという。
現在は伝通院の庭、門を入ってすぐ左手のスペースに供養塔が建っている。

傍らの碑には「ジョゼフ・キイャラ師の霊よ、安らかに眠り給え」と駐日イタリア公使の言葉が刻まれていた。


伝通院本堂


伝通院は寛永寺、増上寺と並ぶ徳川将軍家の菩提寺で、その院号の由来となっている伝通院於大の方(家康生母)をはじめ、千姫、本理院鷹司孝子(家光御台所)、幕末の志士清河八郎、作家の佐藤春夫、悲劇のピアニスト久野久など、たくさんの著名人が眠る。

私事だが――いや、そもそもこのサイト全体が私事なのだが、実は私にとって伝通院は特別な場所である。というのも私の旅行&墓参り趣味は、14歳のときに訪れたここ伝通院から始まったのだ。


記念すべき私の初墓参り物件、
鷹司孝子の墓。

この孝子さんのお墓の後方あたりに、無量院の寺域は広がっていたものと思われる。


小石川にはねこがたくさんいた。しかし東京のねこは警戒心が強く、まったく近寄らせてくれない。


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