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長崎

ここに地果て、海始まる――

 ルイス・デ・カモンイス


■西坂

駅のコインロッカーに荷物を置き、まず最初に向かったのは西坂。キリシタン禁制の時代、刑場として多くの血が流れた場所だ。
今は塵ひとつなく整備されて、中央に舟越保武の手になる彫像「長崎二十六殉教者記念像」が建っている。
日本二十六聖人とは、1597年2月5日(太陰暦では慶長元年12月19日)、豊臣秀吉の命によって磔の刑に処された26人のキリシタンである。時の最高権力者によってキリシタンの処刑が命じられたのはこの事件が最初であった。以後、長崎でのキリシタンの処刑はこの西坂で行われるようになった。
26人の内訳は日本人が20名、スペイン人が4名、メキシコ人とポルトガル人が各1名。最年少は12歳のルドビコ茨木(数え年なので、満年齢なら10歳か11歳と思われる)、最年長は64歳のディエゴ喜斎である。捕縛命令はもともとフランシスコ会に対して出されたものだったが、実際に捕らえられた人々の中にはパウロ三木らイエズス会士も含まれていた。
事件は宣教師や商人たちによってヨーロッパまで伝えられ、二十六人は広くカトリック信徒の崇敬を集めるようになる。1862年、ピオ9世は二十六人を聖者の列に加えた。


長崎二十六殉教者記念像

長崎二十六殉教者記念像は自身もカトリック信徒であった舟越保武が五年の歳月をかけて完成させた大作。
足が垂れているのは天国への飛翔を表しているのだとか。イエズス会士のパウロ三木やディエゴ喜斎、五島のヨハネは足袋を履いているが、ペドロ・バウティスタ神父をはじめとするフランシスコ会の司祭、修道士はみな裸足だ。
殉教者たちの頭の上には、それぞれの名前がニンブス(光輪)を形作っている。三人の子供たち――ルドビコ茨木(12歳)、アントニオ(13歳)、トマス小崎(14歳)は背が低いので、ニンブスの上のスペースにもLAUDATE DOMINUMとかPARAISO JESUS MARIAとかいった祈りの言葉が刻まれている。

ほとんどの殉教者が手を合わせ、天国を夢見るように視線を空に向かって上げている中、両手を広げ、斜め下に視線を落としている人物が二人いる。パウロ三木とペドロ・バウティスタ神父だ。真下に立って見上げると視線がぶつかり、今にも彼らの説教が聞こえてくるかのようだ。雄弁で知られたパウロ三木は、実際の処刑の際にも槍で突き殺される瞬間まで説教を続けていた。


彫像の裏に回ると「長崎への道」と題した今井兼次作のモザイクがあり、二十六人が辿った道を葡萄の形で表している。
殉教者たちは京都から長崎までおよそ1000キロの道のりを一ヶ月かけて徒歩で移動させられたが、これは彼らへの懲罰であると同時に、他のキリシタンに対する見せしめの意味合いがあった。しかし、これは逆効果であったように思われる。
この旅は二十六人にとってまさに十字架の道行きであった。苦しい道のりを歩くことで、彼ら自身信仰を堅固なものにしたし、従容として死に赴くその姿は他のキリシタンたちに強い感銘を与えた。

西坂から港を望む。
キリシタン時代には、この西坂のすぐ目の前に海が迫っていたそうで、港に浮かぶ船の上からも二十六本の十字架がよく見えたという。その後の埋め立てによって海岸線はすっかり変わってしまい、今はビルの間からわずかに海が見えるのみ。


広場の入り口にある句碑。



天国(ぱらいそ)の夕焼を見ずや地は枯れても 水原秋桜子
たびの足はだしの足の垂れて冷ゆる 下村ひろし



■日本二十六聖人記念館

公式サイト

長崎二十六殉教者記念像の裏手にあるこの記念資料館は、二十六聖人の列聖百年祭にあたってオープンした。二十六聖人関連の史料を中心に、多くのキリシタン遺物を所蔵・展示する。
この日は「殉教者とその時代」展が開催中だった。つい一ヶ月ほど前の11月24日、1603年〜1639年にかけて日本各地で殉教した188人の列福式が長崎で行われたのだが、この一大行事(日本で列福式が行われたのは史上初めてだという)に関連した企画展とのこと。

記念館に入ってまず目に付くのが、奥の壁にかけられたパウロ三木の大きな磔刑像(沢田政広作)。近寄って見るとごつごつした力強い木彫だ。
33歳のパウロ三木は「神の教えに従って、太閤様をはじめ、この処刑にかかわったすべての人を赦します」と言って死んでいった。キリストの死をそのままなぞったのである。これはキリスト教徒が処刑される時にはよく見られることで、たとえばルイ16世などもギロチンにかけられる前に同じ台詞を述べている。
パウロ三木、ヤコボ喜斎、ヨハネ五島の三人が刻まれたメダイ、彼らを描いた油画もあった。どちらも18世紀の作。18世紀当時の日本はまだキリシタン禁制下にあったが、ヨーロッパではすでに二十六聖人への崇敬が高まっていたことが窺える。
この記念館はイエズス会が母体になっているので、イエズス会関係の史料が多い。二十六聖人の中でもパウロ三木らが比較的クローズアップされているのは、彼らがイエズス会士だったからだろう。

有名な「雪のサンタ・マリア」の掛け軸を見る。これは隠れキリシタンの家に400年間隠匿されてきたものだという。使われているのは岩絵の具だろうか。聖母の顔も日本的で、おそらく日本人南蛮絵師の手になるものだろうと言われている。

入り口そばには中浦ジュリアンの手紙がガラスケースに入って展示されていた。
中浦ジュリアンは天正遣欧使節の一人(副使)。禁教令の後も国内に潜伏し、司祭として信者の指導にあたっていた。
この手紙は潜伏期間中にローマに充てて書かれたもので、日本のキリシタンの置かれた苦しい状況について述べたあと、信仰を貫こうとする堅い決意が綴られている。

本年の年報にも、今もけっして終わらない、毎日、毎時少しの休養も私たちにやすらぎを与えない迫害に関することが書かれるでありましょう。(…略…)
当領内から福音の教えを駆逐しようとしている領主独自の迫害について、信徒たちの得た情報では、それに対するには、日本の君主たる天下の命令に反してでも、誰かが教えを守り通すことしかございません。

日付は1621年9月21日、口ノ津とある。
ポルトガル語だろうか。こちらに語学力がないので判別はできないが流麗な筆記体である。400年も前の日本人がこれを書いたのかと思うと賛嘆の念を禁じえない。私なんて、いまだに筆記体は上手く書けない。
二十年にわたって信者たちに秘蹟を授けつづけたジュリアンは、1633年、ついに捕えられてここ西坂で穴吊りの刑に処せられた。刑場に引き出された時、「私はローマに赴いた中浦ジュリアン神父である」と言ったと伝えられている。
ジュリアンは天正遣欧使節の中では地味な存在だった。伊東マンショや千々石ミゲルのように大名と縁つづきだったわけでも、原マルティノのように才気煥発の俊才だったわけでもない。けれどそのジュリアンが、仲間たちの中ではただひとり壮絶な殉教を遂げる。
先月行われた列福式では、ジュリアンも福者に列せられた。
「汝らの中で大きいとされている者が天国では小さくなり、小さいとされている者が大きくなるであろう」
ジュリアンの生涯を思うとき、このキリストの言葉を思い出さずにはいられない。

記念館ではキリシタン史料に限らず、ヨーロッパの歴史資料も展示している。
賢王アルフォンソ10世が定めた「七部法典」の大きな本(1528年に刊行されたもの)、なんと350年以前のものと思われるホスティア、カトリック両王やカルロス1世時代のコインなど、興味深いものがたくさんあったが、特にテンションがあがったのが聖フランシスコ・デ・ボルハの聖遺物箱を目にした時だ。
聖フランシスコ・デ・ボルハはもとはカルロス1世に仕えた貴族で、俗人として妻との間に8子があったが、40歳近くなってからイエズス会に入会し、最終的には総長にまでなったという経歴の持ち主。トルデシーリャスの城館に幽閉されていたフアナ女王の聴聞僧をも務めている。その頃トルデシーリャスの城代だったデニア候ルイス・ゴメス・デ・サンドバル・イ・ロハスは彼の娘婿で、聖フランシスコ・デ・ボルハは女王の処遇についてたびたび苦言を呈したという。デニア侯とボルハの娘との間に産まれたレルマ公は、支倉常長がマドリッドで洗礼を受けた際に代父を務めた。
ここでも、繋がっている。
聖遺物箱のそばには、聖フランシスコ・デ・ボルハのポルトガル女王宛の手紙が展示されていた。詳しい説明がないので確証はないが、年代からいってこの「ポルトガル女王」というのは、フアナ女王の末子でジョアン3世の王妃だったカタリーナ・デ・アウストリアではないだろうか。

時間をかけて一階を見てまわったあと、二階へ上がる。
二階には「栄光の間」が設けられ、二十六聖人の遺骨が安置されている。処刑後、二十六聖人の遺体は信者たちの手によって国外に持ち出された。ここに納められている遺骨もマニラの教会から分骨されたものだ。
窓のステンドグラスは椿の意匠だった。日本の殉教者たちを象徴する花。二十六人の十字架が引き抜かれたあと、その穴には二十六本の椿が植えられた。その椿は他のキリシタンの火刑の際に引き抜かれて、薪として利用されたという――。

階段のそばには、長谷川路可のフレスコ画が飾られていた。二十六聖人の長崎への道行きを描いたものだが、14歳のトマス小崎が道中、母に宛てて書いた手紙の文面がそのそばに展示されていた。

わたしと父ミゲルのことはどうか心配なさらないように。近く天国でお会いできると思います。(…略…)
現世ははかないものですから、天国の永遠の幸せを失わぬように努めてくださいますように。(…略…)
重ねて申し上げます。貴女が犯した罪について深い悔恨を持つようにしてください。これだけがたいせつなことです。アダムは神に背いて罪を犯しましたが、痛恨と償いによって救われました。

私はカトリック信徒ではないから、たった14歳の少年が一心に神を信じ、迷わず死に向かっていくことに尊敬の念よりもまず恐れを抱いてしまう。秀吉や徳川将軍などの権力者も、処刑を実行した役人も、非キリシタンの観客たちも、同じように感じたのではないだろうか。理解できないものは怖い。
でも、庶民の人権などなきにひとしかった時代、いつ戦乱に巻き込まれて死ぬかもわからない時代に、彼らにとってただひとつ不変なもの、確かなものがキリストの教えだったのだとしたら、命を賭してそれを守ろうとした彼らのことを、どうして「怖い」の一言で片づけることができようか。

帰り際、付属の売店で展示カタログと結城了悟『ローマを見た』を購入した。結城了悟師は記念館の初代館長。セビーリャ出身のイエズス会司祭で、後に日本に帰化し、キリシタン時代の殉教者たちの顕彰に一生を捧げた。今年の11月17日、188殉教者列福式を目の前にして帰天している。
本以外だと栞や絵葉書、それに新商品だという「長崎二十六殉教者記念像」ペーパーウェイトと、188殉教者列福記念の十字架があった。十字架の面には中浦ジュリアン、裏にはパウロ三木、ディエゴ喜斎、ヨハネ五島が刻まれている。しばらく迷った末ペーパーウェイトの方だけを購入。でも後になって十字架も買っておけばよかったと後悔した。


記念館の庭に置かれているキリシタン墓碑
浦上、明和頃とある

■聖フィリッポ西坂教会


西坂公園から道を挟んですぐ隣に建っているガウディ風の教会。メキシコからの浄財をもとに建てられた。「聖フィリッポ教会」の名は、二十六聖人の一人でメキシコ出身のフェリペ・デ・ヘスス(フランシスコ会修道士)を記念して命名されたものだ。
建築を手がけたのは今井兼次。日本に初めてガウディを紹介した人だと言うが、早稲田の演劇博物館會津八一記念博物館をつくった人でもあると聞いて驚いた。演劇博物館と會津八一記念博物館は漆喰壁の瀟洒な洋風建築で、前衛的な聖フィリッポ西坂教会とはたいぶ趣が異なる。建築年を調べてみると、早稲田の建築物は1920年代、聖フィリッポ西坂教会は1960年代とだいぶ開きがあるので、その間に作風の変化があったのかもしれない。
今井兼次は日本二十六聖人記念館、聖フィリッポ西坂教会、そして「長崎二十六殉教者記念像」裏面のモザイクと、西坂一帯の建造物をトータルで設計・建築している。
階段を上がって中に入ってみた。こぢんまりした愛らしい教会だ。どこからぼそぼそと話し声が漏れ聞こえて来るが、人の姿は見えない。
祭壇の脇にはベレンが飾られていた。もっとも、クリスマス前なのでまだキリストの人形はない。


西坂横の「長崎浦上街道ここに始まる」の碑。
二十六聖人の旅の終着点。


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