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■本蓮寺(サン・ラザロ病院、サン・ジョアン・バウティスタ教会跡)

二十六聖人記念館で思いの外時間を使ってしまった。お腹がすいていたが、とりあえず先を急ぐ。
聖フィリッポ西坂教会の前の階段を下りて、すぐ近くに建つ本蓮寺へ向かった。
ここにはかつて、フランシスコ会司祭で二十六聖人の筆頭格だったペドロ・バウティスタ神父が建てたサン・ジョアン・バウティスタ教会があった。非常に大きな教会で、岬の被昇天のマリア教会、トードス・オス・サントス教会と並んで長崎の三大教会と呼ばれたという。付属施設として、ミゼリコルディアの運営によるサン・ラザロ病院もあった。

教会は1614年に破壊され、跡地に日蓮宗の本蓮寺が建てられた。この広大な寺域のほとんどが教会から引き継がれたとしたら、確かにサン・ジョアン・バウティスタ教会は相当に大きな教会だったのだろうと想像する。
キリシタン時代の遺構としては、ただひとつ、井戸が残っている。しかしこの井戸、お寺の私有地の中にあり、見学するには寺務所に声をかけなければならないと言う。お昼時ということもあり、なんとなく気遅れしてしまってインターフォンを押せなかった。ダメな私……。
この寺はまた勝海舟寓居の地でもあったとのことだが、私は幕末ネタに疎いのであまりピンと来ない。

本堂裏手は斜面に沿って広い墓域となっている。入り口に「高木家墓所」の案内があった。高木家は代々長崎代官を務めた家柄である。面白そうなので見学することにしたのだが、登れども登れども辿り着かない。途中でちょっと後悔するも引き返すわけにもいかず、這うようにして頂上までたどり着く。階段の脇には水路が引かれていて、冷たい水が流れていた。

失礼して写真を撮らせていただく。さすがに立派なお墓だが、草がボーボー…。まあ、こんな上の方にあったら草刈りに来る人も大変であろう。
お墓の前からは長崎の街がよく見渡せた。

高木さんちのお墓ほどではないが、一般人の墓も派手である。墓石が大きいし、お墓に刻まれた文字は金色。お墓の横に「土神」と刻まれた小さな石碑のようなものが建っているのが気になった。あれは何だろう。(後で調べてみたら土地神のことで、これを祀るのは中国から伝来した風習らしい)


かつてあった二天門の痕跡。原爆で失われた。

■聖福寺


本蓮寺の前の道を東に少し歩くと聖福寺がある。宗派は黄檗宗で、いわゆる唐寺。戦災を免れたお堂は見事に古色がついている。唐寺というと朱塗りの華やかな建物が多いなかで、侘び寂びを感じさせる聖福寺は日本人好みの雰囲気を持っていると思う。


本堂



じゃがたらお春の碑

長崎の鶯は鳴くいまもなほ じゃがたら文のお春あはれと 吉井勇

イタリア人と日本人のハーフでジャカルタに追放されたお春の悲しい物語は、子供の頃に児童書で読んだ。
彼女が日本の友人に宛てて書いたという「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」の「じゃがたら文」は有名だが、現代では偽作とする説が有力だそうで、ちょっと残念。


鐘楼の装飾。桃があしらわれている。


山門の布袋様。あまりにもいい笑顔だったので。


■長崎歴史文化博物館(山のサンタ・マリア教会跡)


長崎三大教会の一つ、山のサンタマリア教会があった所。教会は1614年に破壊され、跡地には長崎奉行所立山役所が建てられた。今ではここに長崎歴史文化博物館が建っている。
ここでも188殉教者の列福式にあわせ、「バチカンの名宝とキリシタン文化」展が開催されていた。イタリアからはヴァチカン美術館蔵のフラ・アンジェリコ『聖母子像』、国内からも東京国立博物館蔵の踏み絵、京都大学総合博物館蔵『マリア十五玄義図』など、大作・名作が揃った大規模な展覧会である。長崎行きをこの時期に設定したのは、この展覧会を見るためでもあった。
はやる気持ちを抑え、まずは常設展から見ていくことに。
映像や音声をふんだんに使って大航海時代から現代までの長崎の歴史が紹介されている。中には奉行所をほぼ実物大で再現したコーナーもあり、靴を脱いで上がれるようになっていた(さすがに畳は偽物だったが)。
面白いし、勉強になるけど、これ採算取れてるのかな。余計なお世話だけど。

お次はいよいよ企画展。
入ってすぐの所にジェズ教会の『元和8年、長崎大殉教図』が展示されていた。作者は迫害を逃れマカオに亡命した日本人キリシタンと見られ、処刑の様子が細かく描かれている。
いつかローマに行くことがあったら見てみたいと思っていた作品なので、これは嬉しい。

天正遣欧使節の正使で筆頭だった、伊東マンショの肖像画。
2005年、彼らが謁見したローマ教皇グレゴリウス13世の子孫であるボンコンパーニ家の図書室で発見された。
二十六聖人記念館で見た、ヨーロッパ人が想像で描いた日本人殉教者たちの顔は、どう見ても西洋人にしか見えなかったが、このマンショの肖像はちゃんと写実的な日本人の顔をしている。画家が実際にモデルを目の前にして描いたのだろう。
マンショはこの時16歳くらいだろうか。肩のあたりには少年らしさが漂っているが、表情は落ち着いて大人びている。ものすごく真面目そうだ。生徒会長って感じ。
テスト前に「伊東君、ノートコピーさせて〜」などと頼もうものなら、「君はどうしてそうなんだ。人を頼らず真面目に勉強しなければ駄目じゃないか」とひとくさり叱った後、「仕様がないな。次からはちゃんとしたまえよ」とノート貸してくれそうなタイプだな。

人知れず脳内妄想劇場を繰り広げる私の横で、学者風のおじさまがメスキータ神父の肖像に見入っている。常設展はガラガラだったが、企画展はそこそこ人が入っているのだ。
メスキータ神父はマンショら使節をローマまで引率した人である。肖像画に描かれているのは温厚そうな中年の男性。
マンショは迫害が激化する前に43歳の若さで病死するのだが、メスキータ神父はその時も原マルティノとともに臨終の枕元に付き添い、祈りを捧げつづけた。メスキータ神父自身もやがて病を得て、日本に骨を埋めている。1614年、国外追放が決まったバテレン、イルマンたちを乗せた船が出航する数日前のことだった。

今回発見された肖像画は、伊東マンショとメスキータ神父のものだけである。他の人々の肖像画は最初から描かれなかったのか、散逸してしまったのか。
でもこれらの絵が400年の時を経て思いがけず発見されたように、新たな肖像画がひょっこり見つかることもあるかもしれない。願わくば、私が生きているうちにその日が来て欲しいものだと思う。


「親指の聖母」は気品あふれる小品だった。聖母の衣に使われているラピスラズリの青が目に沁みるようだ。

この絵を日本に持ち込んだジョヴァンニ・シドッチはシチリア生まれの司祭で、最後の潜入宣教師と呼ばれる。
鎖国下の日本に潜入を試み、侍に変装して屋久島に上陸したが、すぐにバレて捕まった(そりゃそうであろう…)。

江戸に移送されたシドッチの尋問にあたったのが新井白石。
英明な人だった白石はシドッチの学識に惹かれ、終始敬意を持って接したという。結局シドッチは拷問されることも処刑されることもなく、生涯を切支丹屋敷に幽閉されて過ごすことになった。布教をしないという条件で、キリスト教を信じ続けることさえ許された。
一時代前の宣教師たちが被った迫害に比べたら破格と言ってもよい待遇だと思うが、
「だがシドッチにとっては、波濤万里、この日本に来たのに、ただ一人も自らが信ずる信仰を伝えないで死ぬことはできなかったのであろう」
と遠藤周作は書いている。
1713年、彼の身の回りの世話をしていた日本人夫妻、長助とはるがシドッチに感化されてキリスト教に帰依するという事件が起きた。長助とはるは牢に入れられ、シドッチもまた約束を破ったとして投獄される。
ここに至ってシドッチは宣教師としての真情をあらわし、「長助、おはる、信仰を棄てるな」と日夜牢から叫び続けたという。七ヶ月後、長助、はる夫妻とシドッチは相次いで獄死する。

企画展を見終わったあたりでついに空腹が限界に来たので、構内のレストラン「銀嶺」に入ってカレーをオーダー。博物館付属のレストランということで、あまり期待していなかったのだが、これが予想に反して美味しかった。肉がとろけるようだ! 店内にはアンティークの陶器やランプが並べられ、雰囲気も良い。
聞けばここは1930年創業の老舗で、遠藤周作なんかも常連さんだったそうだ。もとは鍛治屋町で営業していたそうだが、長崎歴史文化博物館の開館に際して移転オープンしたとのこと。クリスマスイブのディナーの案内があったが、すでに満席だった。

売店では南蛮船をあしらった栞とコンプラ醤油差しを記念に買った。
初日から買い物しすぎな気がする。しかも自分のためのお土産ばかり。


発掘された石燈籠。真ん中にかわいいモノ(たぶんお稲荷さんのキツネ)が…。




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