HOME 2008.12.19(金)
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12,3歳だろうか、顔にも体つきにもあどけなさの残るミゲルである。フェリペ2世風の洋装に身を包み、右手を高く上げている。赤茶けた肌色の中で、胸にさげた金色の十字架がひときわ目立つ。
天正遣欧使節の四人に直接面会したウルバーノ・モンテは、ミゲルの物腰・態度について「蜂蜜のように甘い dolce como mele」と書き残している。この場合のdolceは優美な、とか柔和な、とでも訳せば良いだろうか。武士の子ではあったが、勇猛な荒武者タイプではなかったということだろう。体も弱かったというし、悪く言えば軟弱…だったのかもしれない。ミゲルはイエズス会から脱会して侍に転身したけれど、それは彼に向いた道ではなかったんじゃないかと思う。
横断歩道を渡って橘神社へ行ってみることにした。
お正月には「日本一の大門松」が設置されるという鳥居も、橘中佐の銅像も、軍神橋という名の太鼓橋も、すべてがでかい。
社殿もやっぱりでかかった。
この神社の祭神は地元出身の陸軍軍人、橘周太中佐。日露戦争中に遼陽の戦いで戦死を遂げ、軍神と崇められた人だ。神社幕にはその名のとおり橘の神紋が染め出されている。
軍神橋より。矢印のあたりが釜蓋城。 |
橘神社と原爆慰霊塔に参拝を済ませてから、ミゲル生誕の地といわれる釜蓋城址に続く道を登り始めた。
これがけっこうな
坂道だった。
戦国時代の城というのは要は要塞だから、山の上などに造るのは当然といえば当然なのだが……。でも、ここまでがんばって高いところに作っても攻め落とされてしまうんだなあと思う。釜蓋城は1577年、龍造寺軍に攻め込まれて落城している。
このとき自刃した「千々石大和守」がミゲルの父、千々石直員であったのか。ミゲルの父については資料によって微妙に矛盾があって混乱するのだが(キリスト教禁制後には、キリシタンであった者を系図から抹消したりということがよくあったそうなので、ミゲル関連の資料にも手が加えられている可能性がある)、定説では、千々石直員は有馬晴純の三男で、千々石家に養子に入ったとされている。直員の長兄が有馬義直、次兄が大村純忠なので、ミゲルは有馬・大村氏両方にとって甥ということになる。
ぜえぜえ言いながらようやく頂上に到着。城を模した小さな展望台に登る。
苦労した甲斐があって、展望台からの眺めはすばらしいものだった。正面には千々石の海岸線が広がり、山際には棚田が。
ここで記念撮影を……と思ったらカメラの電源が入らない。
なんで!? つい二三分前まで普通に使えていたじゃないか!
電池をいれたり出したりいろいろ悪戦苦闘してみたけどやっぱりウンともスンとも言わない。駄目だ。
というわけで、ここからは携帯のカメラでとったしょぼい画像でお送りします。
展望台からの風景 |
苔むした千々石清左衛門の碑。裏側にはミゲルの事績が刻まれている。清左衛門というのは還俗後のミゲルの名。
そのすぐそばには「キリシタン遺物」として石像が祀られていた。神父像だと言うのだが、言われなければとてもそうは見えない。
来た道を通って鳥居のところまで戻ってきた。バスが出るまであと約20分。海岸まで降りてみたかったのだが、その時間はなさそうなので、もう一度ミゲルの像に会いに行くことにした。
私「ミゲル君、デジカメの電源が入らなくなっちゃったよ…」
ミゲル「知らんがな」(と、言っているように見えた)
バス停の並びにあるデイリーストアで使い捨てカメラを買った。カメラのことは気がかりだが、うだうだ考えていても始まらない。今は旅程を着実に消化することを優先せねば。
時間ちょうどにやってきたバスに乗り込み、諫早駅前へ。往路とは打って変わってバスはひどく混み合っていて、車内の熱気もすさまじく、少し気分が悪くなった。
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