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伊木力

過ぎし日々は刻の彼方へ
ローマは遥か遠く
僅かの金貨で
得たものは孤独
病みつかれた快楽の日々か

 あいさとう「ローマを見てから、死ね」


■千々石ミゲルのものと見られる墓石

長崎行きを決めたきっかけのひとつとなったのが、大石一久著『千々石ミゲルの墓石発見』だった。2003年に発見された墓石を題材に探偵のような推理と考証を重ねて、その被葬者が千々石ミゲル夫妻以外にはありえないことを証明していく、歴史研究の醍醐味ここにきわまれりの名著である。この本を読んで、問題の墓石をぜひともこの目で見てみたいと思ったのだ。

ミゲルのものと見られる墓石(同書の中では伊木力墓石と呼ばれる)がある場所は、大草駅から歩いて30分ほどのみかん畑の中だそうだ。
諫早から12:11発の電車に乗るつもりだったが、タッチの差で逃してしまったので、駅前の西友のマックで時間を潰すことに。次の電車は13:10発。
ふと見ると、コートの裾にたくさんのセンダングサ(いわゆるくっつき虫)がついていた。ひとつひとつ指でつまんで捨てながら、草叢の中を歩いたのなんて何年振りだろうと思う。

諫早から喜々津乗換えで大草へ向かった。電車から見下ろした海が海草や海底の岩が透けて見えるくらい澄んでいることにびっくりする。
墓所のあるあたりは合併で諫早市となっているが、もとは多良見町。私の大好きな「たらみのゼリー」のふるさとだ。
改札を出ると左方向に道なりに歩いて行く。この時点では何の目印もないけれど、先に訪れた人たちの手記を読んで予習していたので不安はなかった。すこしのことにも先達はあらまほしきことなり。

琴海中学校を過ぎたあたりに「千々石ミゲルと見られる墓石」の標識を発見。正しくは「千々石ミゲルのものと見られる墓石」じゃないのかな…。とつい校正魂が出てしまうのはたぶん職業病だ。
標識に従って曲がると、こんな風景が広がる。


田んぼを突っ切る一本道。田んぼの両側の斜面はみかん畑だ。

カントリーロー このみーちー
ずーっとー ゆけばー


頭の中に流れるこの音楽。

ミゲルの墓にー 続いてーるー
気がするー カントリーロー


気がするじゃなくて本当に続いててくれないと困る。
道連れもいないので、ipodの電源を入れる。最初、平尾雅子「王のパヴァーヌ」をかけたのだが、どうも風景に合わない気がして、アントネッロの「天正遣欧使節の音楽」にした。うん、こっちの方がしっくりくる。しっくり来るが、せつない。最初の一曲が「パッサメッツォ上の五木の子守唄」なのだ。

おどんが打っ死んだちゅうて、だいが泣いてくりゅうか
うらの松山蝉がなく
 (私が死んだからといって誰が泣いてくれようか
  裏の松山で蝉が鳴くばかり)

おどんが打っ死んだら、往還ばちゃ埋けろ
通る人毎ち花あぐる
 (私が死んだら道端に埋めてほしい
  人が通るたびに花を供えてもらえるから)


アントネッロの濱田芳通は、「美しい悲劇としての(天正遣欧使節の)少年たちの物語や、キリシタンをはじめ迫害を受けた人たちへの追悼の意を込めて」この歌を選んだという。

一本道の突き当たりにふたつめの標識があった。

なんだかシント・イデスバルトのデルヴォー美術館を思い出すが、こっちの方が数段手ごわい。 

それにしても暑い。ただでさえ季節はずれのぽかぽか陽気に加え、ちょっとしたウォーキングをしてるのだから、汗も出て来るはずだ。
マフラーを取る。まだ暑い。さらにコートも脱いでしまった。それでもやっぱり暑い。
途中の自動販売機で冷たいお茶を買って、飲みながら歩く。
今回に限ったことではないが、なんで私は何百年も前に死んだ人のためにこんな所で大汗かいて苦労しているのだろうか。
うっかりわれに返ってしまった。

駅を出てから、30分ほども歩いただろうか。
ゆるやかにカーブしている道の先に二つのトンネルが見える。左のトンネルはコンクリート造。右は赤い煉瓦造り。

煉瓦の方をくぐると、すぐ右手に急勾配な細い坂道が延びる。その脇には階段と案内板が設置されていた。
階段を上りきると、自然石の墓石が姿を現した。
いざ目の前にしてみると、写真で見て想像していたより大きい。墓前には真新しい小菊が供えられ、みかんとお水が置かれていた。


お墓のすぐ横にはみかん畑があって、オレンジ色の実がたわわに実っている。養分は……いや、余計なことは考えるまい。
墓石の前にしゃがんで手を合わせる。

このお墓はもともと、ミゲルの四男である千々石玄蕃の墓とされ、墓石の立つ土地のすぐそばに住む井手さんという一族によって代々大切に供養されてきた。
歴史史料としての石造物を研究対象としてきた大石一久氏が、千々石一族の研究者である宮崎栄一氏に案内されてこの墓石をはじめて訪れたのは、2003年暮れのこと。
墓石を一目みた大石氏は、「大きい、明らかに江戸初期だ」と思う。しかし墓石の表面には男女二名の戒名と没年月日が刻まれているだけで、被葬者であるはずの玄蕃の名前がどこにもない。裏にまわって左隅の方に目を向けると、かすかに「千々石玄蕃允」の字が見えた。

その間、私は何ともいえない興奮で、心の中で‘まさか’を連発していた。玄蕃は、この墓を建てた施主だ。
「これは、玄蕃の墓ではないと思います」
多分、このときの私の断定的な口調に、長年「玄蕃の墓」と信じて、位牌まで作って供養されてきた井手さんご夫婦は気分を害されたのかもしれない。宮崎さんにしても、多分同じ気分になったであろう。でも、もうこのときの私の中では、これは玄蕃の墓ではないという確信があった。
「玄蕃の両親の墓の可能性が高いと思います」
小さなどよめきを感じた。まさか、玄蕃の両親? 皆さんの食い入るような視線を感じながら、私は宮崎さんに言った。
「玄蕃の両親といえば、千々石ミゲル夫妻、間違いないですよね」
  大石一久『千々石ミゲルの墓石発見』(長崎文献社)p.74


ミゲルはイエズス会を退会した後、従兄にあたる大村喜前に仕え、やがて喜前の改宗に従ってキリスト教を棄てたとされている。六百石の扶持を受け(墓石の立つ伊木力もミゲルの知行地だった)、領内からキリシタンを一掃するために活躍したらしいが、いつの頃からか喜前に疎まれるようになり、ついには領内を追放される。
その後はもう一人の従兄である有馬晴信を頼って有馬に赴いたが、ここにもミゲルの居場所はなかった。どんな事情があったものか、晴信の家臣から瀕死の重傷を負わされるという事件があり、ミゲルは再び別の土地へと逃げ延びていく。
ミゲルの消息を伝える最後の記録は、彼と面識のあった宣教師ルセナの回想録である。それによると1622〜3年頃の段階では長崎で生存していたことが確認されているが、以降の足取りについてはいっさい不明。当然没年月日も埋葬地もまったく謎のままだった――この墓石が発見されるまでは。

墓石の表面には中央に「妙法」、その下に男女二名の戒名と没年月日が小さく刻まれている。

  寛永九壬申年十二月
  本住院常安霊 十四日
  自性院妙信霊 十二日


女性の方が二日前に亡くなっている。自然死であるとしたら、流行り病ででもあったのだろうか。妻に先立たれた夫が気力を失って力尽きたのかもしれない。まるでミゲルら四少年がヨーロッパで聴いたであろうと言われている、mille regretzの歌詞のようだ。

 なんという悲しみ あなたから去り
 その愛らしい顔とも別れなければならぬとは
 深い嘆きと苦しみのために
 私の命も尽きてしまいそうだ


千々石玄蕃允

裏に回ると、確かに「千々石玄蕃允」の文字が、表面の戒名よりもいくぶんはっきりと見える。

井手さんによると、この墓石の被葬者には「大村に恨みを持って死んだので、大村の見えるこの地に、大村を睨みつけるように葬った」という伝承があるという。
また、上の写真で、伊木力墓石の斜め後方に写っている小さな墓は、伊木力墓石被葬者の従者のものと伝わる。もとは三基あったそうだが、昭和40年代に起きた土砂崩れで二基が埋まって、今はこの一基だけが残されている。伝承では、墓石の被葬者が大村の見えるこの場所で切腹したので、従者である彼ら三人も、主人に従って切腹したと言われている。


従者の墓


大石氏によると、この墓の建つ一帯は本来キリシタンのための墓地だったそうだ。
仏教徒とキリシタンが同時期に墓地を共有することは考えられないので、ここに葬られているということは、ミゲルはキリシタンに立ち返っていたのではないかと大石氏は書いている。
そうなると彼の死因はキリスト教の禁じる自殺(切腹)ではなく、ガラシャ夫人や従兄の有馬晴信のように家臣に斬らせたのではないかとも。

これらの推測は、今はまだ推測にすぎない。ミゲルの生涯については公文書の形で残っている記録が非常に少ないし、宣教師にとっても大村・有馬両氏にとっても彼は葬り去りたい人物だったから、これから決定的な証拠が出てくることはまずなさそうだ。
ただこの伊木力墓石に関していえば、埋葬当時から場所が変わっておらず、内部の遺構がそのまま残っている可能性も高いという。今後の調査・研究に期待したい所だ。

階段下のあずまやには訪問者用のノートが設置されていた。今月に入ってからだけでも、たくさんの人が訪れている。特に12月14日は墓石の被葬者の命日ということで、数名の記帳があった。

殉教したキリシタンには墓がない。聖遺物をほかの信者の手にわたさないように、殉教者の遺体は灰になるまで焼かれて長崎港に流された。中浦ジュリアンの遺体も同じ運命をたどっている。
しかし、彼らは尊い殉教者として人々の記憶に残ることができた。ジャンヌ・ダルクに捧げてアンドレ・マルローが言ったように「英雄たちの墓は生者の心の中にある」のだから。
棄教したキリシタンはもっと悲惨であると、私は思っていた。彼らの墓は人々の心の中にすらない。キリシタン側からも仏教徒側からもタブー視され、天国の栄光も現世の成功も失ったミゲルがそうであったように。
けれど、このお墓がほんとうにミゲルのものだとしたら、どうだろうか。
まさに死に分かたれるまで人生を共にした妻があり、忠実な従者と、こんな立派な墓を立ててくれる息子を持ち、何代にもわたって大切に供養してくれる人があり、そして今、彼の墓に参るために、縁もゆかりもない人たちが全国からやってくる。これはやはり、幸せなことではないだろうか。たとえ彼の後半生がどれほど苦悩に満ちたものだったとしても。
ミゲルの墓もまた、確かに私たちの心の中にあるのだ。


墓石の後方から大村湾方面を望む

■熊野神社

『千々石ミゲルの墓石発見』によると、この近く(といっても徒歩で20分くらいの距離だが)に、ミゲルの住居跡ではないかと思われる場所があるという。今の熊野神社、元は三社大権現と呼ばれていたが、もっと昔は「千々の宮大権現」と呼ばれていた所だ。
ミゲルが大村を恨んで死んだので、その住居跡を神社とし、荒ぶる御霊を鎮めようとしたのではないかと大石氏は推理している。
さらに、「千々の宮大権現」が「三社大権現」に名を変えたのが1658年。この前年、大村では郡崩れと呼ばれる大規模なキリシタン発覚事件が起こっている。事件をきっかけに領内からはキリシタン色が一掃されることになり、その一環としてこの神社も生まれ変わったのではないかというのだ。

同書に載っている白黒の地図を見ると、第一番目の標識があった道まで戻り、大草駅の方には行かずに、反対方向に少し進むと右側に熊野神社があるはずである。
道沿いにはみかんが無防備に実っていた。いよかんなのかぽんかんなのか、よく分からないがとにかく大きな柑橘類も見られる。こんなに歩道に近い場所にあって、盗まれたりしないのだろうかと思う。

地図の指し示すあたりまでやってきたが、どうも神社がありそうな雰囲気ではない。かなり範囲の広い地図なので、正確な場所が分からないのだ。
立っていた場所がちょっとした高台だったので、右下方向を見下ろしてみると、住宅がかたまって建っているのが見えた。あのあたりだろうか?
住宅地を目指して坂を下りていると、家と家の間からコンクリートの鳥居が見えた。あれだ!
しかし、坂を下りきったらまた見失ってしまってウロウロする。交番の前でおまわりさんと住民数名が立ち話をしている。いかん、不審人物だと思われるかも。いやいやあの交番で道を聞けばいいのか。
気を取り直して交番に向き合ったら、交番の隣にさっきの鳥居が見えた。

社殿はやや奥まった所にあった。敷地はそう広くないが、木が鬱蒼と生い茂って、木下闇が心地良い。社殿はそんなに古いものではないな。昭和の建造ではないだろうか。
そう考えながら社殿内部に視線をやった時、提灯に染め出された神紋に私の目は釘付けになった。
五瓜に唐花。
うちの家紋と同じだ。

「お前んちの家紋なんかどうでもいいんだよ」という声がどこからか聞こえてきそうだ。そう、我が家の家紋はどうでもいい。
問題は我が家の家紋が有馬家の家紋と同じだということである。
有馬といえばミゲルの父の実家。
千々石直員がどんな家紋を使用していたかは不明だが、同じく有馬家から大村家に養子に入った大村純忠が「五瓜に唐花」をアレンジした「五瓜に剣唐花」を自分の紋としているように、直員もまた実家の紋を引き継いだ可能性はあると思う。
ローマで教皇に謁見した時にミゲルが着ていたという、花鳥の刺繍を施した豪奢な着物。その背や胸に染め抜かれていた紋が、五瓜に唐花紋だったとしたら。
生身の人間を祭神として祭る場合、その人物の家紋をそのまま神紋にするのは珍しいことではない。千々石の橘神社だってそうだった。
いや待て落ち付け。大石氏だって書いているではないか。

権現の名称が「千々石の宮」ではなく「千々の宮」となっているのも、おそらく清左衛門の置かれた当時の立場から「千々石」の名をはばかってのことだと思われる。仮に「千々石の宮」となっていたとすれば、大村藩に抹殺された経緯から考えて、むしろ清左衛門との関係は希薄となる。
 大石一久『千々石ミゲルの墓石発見』(長崎文献社)p.164

熊野神社がミゲルを祀ったものだったとして、それを堂々と表明するようなことをするとは考えられない。

――ここで種明かしをしてしまうと、熊野神社の神紋はミゲルではなく、大村家に由来するらしい。
なーんだ、という感じである。この土地はもともと大村領だったので、領主の家紋をいただいたというのが正解のようだ。
しかし、大村家の家紋は上に書いたように「五瓜に剣唐花」。「五瓜に唐花」とは似ているけれど微妙に違う。唐花の花弁の間から剣状の突起がピョコピョコ出ているのが「五瓜に剣唐花」である。熊野神社の神紋はシンプルな「五瓜に唐花」だったと思うのだが……。
つくづくデジカメの故障が悔やまれる。携帯カメラと使い捨てカメラの画像を一杯に拡大してみたが、紋の微妙な違いは見分けられなかった。

それにしても。
もしここが本当にミゲルを祀った神社ならば、もともとカトリック信徒で、その後仏教に改宗した人物を神道の神様にしたということになり、まさに遠藤周作が言った「日本という沼」、カクレキリシタンを生んだ土壌であるなあと思う。
なんでも取り込み自分のものにしてしまう、そんなカオスな日本宗教を私は決して嫌いではないけれど、ヨーロッパの人にはとうてい理解できない宗教観だろう。

ミゲルがなぜキリスト教を棄てたのか、はっきりしたことは分かっていない。
体が弱かったため学業についていけなかったのではないかという説もあり、また、イエズス会内部での待遇に不満を持っていたとも言われている。イエズス会の裏も表も知り抜いた彼は、その体制に反感を持ったのかもしれないし、またキリスト教の教義そのものに疑問を抱いた可能性も考えられる。なんにせよ、理由はひとつではないのだろう。
棄教後のミゲルと対話したルセナは、彼がキリストの神性を否定し、しかも仏教や神道にも帰依していない無神論者になってしまったと語り、異教徒になるよりもなお悪いと嘆いている。ペドロ・モレホンもまた同様の証言をしている。
若桑みどりは『クアトロ・ラガッツィ』(この本が出たとき、まだ「ミゲルの墓石」は発見されていなかったが)の中で次のように書いた。

もしミゲルが、疑うことを学び、神をも仏をも信じない自由を悟り、そしていかなる宗派にも、いかなる藩にも属さず、キリスト教徒でも仏教徒でもない人間として長崎の町で人知れず生きて死んでいったとすれば、それは現代のわれわれにもっとも近い人間であった。
 若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ』(集英社文庫) p.424-425

ミゲルが若桑氏の言うように現代的な無神論者として生きたのか、それとも大石氏が言うようにキリシタンとして立ち返ったのか、今の段階でははっきりしたことは分からない。永遠に分からないかもしれない。ただ、どんな信仰を持っていたとしても、あるいはいかなる信仰も持っていなかったとしても、彼の晩年の日々が穏やかなものであったことを祈るばかりである。
ひとつ救われる思いがするのは、ミゲルがヨーロッパの思い出についてはなつかしく語っていたという証言があることだ。イエズス会やキリスト教からは離れても、かつて仲間たちとともに海を越え、その目で世界を見たことは、少なくとも消し去りたい思い出ではなかったのだ。少年時代に出会ったすべてを否定して生きていくのはつらく苦しいことだろう。せめて一部分だけでも輝かしい・誇らしいものとして生涯大切にできる記憶があったのならば、本当に良かったと思う。


■大草駅へ


15:42発の電車に乗るために、歩いて大草駅へ戻った。
時間が少し余ったので、駅近くの売店「この実ちゃん」でみかんシャーベットを買った。
オレンジじゃない、まさにこれはみかんの味だ。
駅のベンチに座ってのんびり味わう。


鉄橋の上に立って波の向こうに目をこらしてみたが大村の玖島城の場所は分からず、ただ、海がきれいだった。

「人間がこんなに哀しいのに、主よ、海があまりに碧いのです」
という、『沈黙』の有名な一節を思い出した。

電車からは一瞬、伊木力墓石が見えた。これで本当に見納め。
さようなら、ミゲルのものかもしれない墓よ。命あらば、また他日。


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