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2006.6.16(金)

一日め

■奈良へ

8:30頃、前日わが家に泊まった母と一緒に東京駅へ。
9:26東京発のぞみ117号、11:47京都着。近鉄京奈特急に乗り換え。
電車の窓からは平城京跡が見えた。だだっ広い野原の中に復元された朱雀門や東院庭園がぽつぽつと建っている。
12:39近鉄奈良駅に到着。
東京では激しい雨が降っていたが、奈良は好天であった。やはり日頃の行いがよいからな。


近鉄奈良駅前のバスターミナル

コインロッカーに荷物を置き、バスで法隆寺へ向かう。
法隆寺までは大和郡山(金魚で有名)、薬師寺などを経由して30分ほどの道のり。


バス、ガラガラ

■法隆寺

実は私は今回がはじめての法隆寺。中学の修学旅行では京都がメインで、奈良は薬師寺と東大寺・奈良公園にしか行かなかったのだ。


南大門

何年か前に整備された広くてきれいな参道。食堂の立ち退き問題はどうなったんだっけ?
まっすぐ歩くと南大門前に辿りつく。腕をひろげたような長い土塀が美しい。
修学旅行生の団体が多少いるけれど、それでも梅雨という時期柄か、かなり空いている。母も「こんなに人の少ない法隆寺ははじめてだ」と言っている。


中門

珍しい3本の柱が謎を呼ぶ中門。おお、エンタシス!
金剛力士像は711年に造立された現存最古の仁王像だ。写真は撮り忘れた。
しかしこの中門は閉鎖されており、構内に入るには左にしばらく進んだ先にあるチケット売場を経由しなければならない。
一帯にはむせ返るような花の香りがたちこめる。お寺の人に聞くと塀の外を指さして、菩提樹だと教えてくれた。菩提樹花のお茶というのがプルーストやジュネの作品中に出てくるけれど(フランス語ではtilleulティユールという)、するとこんな香りのお茶なのだな。ジャスミンに似ているように思う。


《五重塔》

仏舎利を納めるために建てられた塔。
実際に塔の心柱の下からは仏舎利を納めた舎利容器が見つかり、そのレプリカが大宝蔵院に展示されているが、本物がどこにあるのかは知らない。今もこの塔の中にあるのだろうか。
塔内には立ち入ることはできず、柵越しにのぞき見る形になる。
内部には名高い塑像群がある。
しかし微妙に距離があるのと薄暗いのとでよく分からない。
最も有名な涅槃像のある北面には修学旅行生が列をつくっていたので、とりあえず他の3面だけ見て先に金堂へ。




《金堂》

聖徳太子と妃の膳大郎女(菩岐々美郎女)の冥福を祈って止利仏師あるいは彼の工房に造らせた釈迦三尊像を納める。他に太子の父用明天皇のために造られた薬師如来像、母穴穂部間人媛のために造られた阿弥陀如来像。
堂内は薄暗く、目をこらして仏像のアルカイックスマイルを見る。北魏様式だというが、極端に細面で、異相とさえ思える。
四隅の四天王像は現存する日本最古のもの。後世の四天王像に比べると動きが少なく、足もとの邪鬼も組み敷いているというよりはそういう形の踏み台に乗っているようだ。ちょっと組み体操っぽい。
顔や衣服、光背の一部に彩色の痕跡が残る。
ここには説明係のお坊さんがいて、ところどころライトで照らしながら解説してくれた。
釈迦三尊像の上にある天蓋は木製だとか。
金堂の内側には壁画が残されていたが、昭和24年の修復中に惜しくも火事で焼けてしまった。現在かかっているものは写真をもとにした摸写。
ところで法隆寺七不思議の一つに「法隆寺には決して蜘蛛が巣をかけない」というのがあるけれど、実際には至るところにかかっていた。

《大講堂》

横に長い建物で、僧侶が学問をする所。両脇に経蔵と鐘楼。
金堂、五重塔に比べると新しく、925年に建てられたもの。落雷で一度焼失し再建されたためだ。といっても平安時代の建物なのだから十分古い。
法隆寺の建造物のほとんどが、たびたび火災にあっては焼失している。五重塔の九輪にかけられた鎌は雷よけのまじないだという説もあるくらいで、いかに火事が恐れられていたかが忍ばれる。
本尊は薬師三尊像。
大講堂正面の燈籠は江戸時代の作。徳川綱吉の生母、桂昌院お玉の方の紋と葵の紋が入っている。


回廊

回廊は古都奈良ならではのもの。講堂と中門をつないでいる。
ここにもエンタシスが。おほてらのまろきはしら。それは唐招提寺。←一人ツッコミ

《聖霊院》

摂政姿の聖徳太子像があるが、お会式の時以外は非公開。この像の胎内にはミニチュアの救世観音像が納められていたという。
建物は寝殿造りになっていて格天井、蔀戸を備える。横にまわってみると、寺院建築というよりは今にも十二単の女君が出てきそうな雰囲気。鎌倉時代の建物だけど。
ここは御朱印の受付け所になっていた。前々から御朱印デビューしたいと思いつつ機会がなかったのだが、今こそ御朱印帳を持つべき時が来たのではあるまいか。
というわけで、作ってしまいました。

コレ→

以和為貴(和を以て貴しと為す)。憲法十七条。
わーいわーい。御朱印集めるならやっぱり最初は格式の高い寺からはじめたいもんね。ほくほく。(何か間違ってる気がする…)

《黒駒調子丸像》

聖霊院のすぐそばには黒駒の手綱をひく調子麻呂の像がある。
調子麻呂は聖徳太子の舎人。
『日出処の天子』に出てきたね!

調子麻呂の前で市民ボランティアのガイドさんが参拝者の男性に説明をしていたので、便乗して一緒に聞かせてもらう。4人一緒に大宝蔵院へ。


《大宝蔵院》

大宝蔵院に続く細い道の右側には綱封蔵、食堂、細殿が並ぶ。綱封蔵は寺宝を納める蔵にふさわしく高床式。
大宝蔵院はコンクリート造の現代的な建物だった。一応朱塗でそれっぽくは造られているのだがピカピカに色鮮やかで落ち着かない。もっとも五重塔も金堂も建立当初はこんな色だったのだろう。

最初の部屋には夢違観音
白鳳時代の作である。止利様式からかなり時代が下っていることもあり、顔も体もまろやかに肉付いたとっつきやすい美人。いかにも優しげで、怖い夢を見た時にすがりたくなるのも分かる。

帝釈天立像は沓が壊れて足の指が剥き出しになっている。これは最初からこういう風につくったのだろうか?
見えない所にまでこだわってしまう日本人気質。遺伝子に組み込まれたオタクプログラムの存在をヒシヒシと感じる。
まるまるとした聖徳太子二歳像、えなりかずき似の七歳像(つい最近東京国立博物館の法隆寺宝物館に来ていたので見るのは二回目)、お札のモデルになった肖像画などを見つつ隣りの部屋へ。

玉虫の厨子
透かし彫りの金具の下に2枚だけ残っていた玉虫の羽根を、ライトをあててもらって確認することができた。
厨子の側面には『捨身飼虎図』、『施身聞偈図』。色彩はすっかり黒ずんで表情の見分けもつかないが、体重などないようかのようにふわりと落ちていく薩捶王子の体が美しい。

橘夫人厨子
光明皇后の生母橘三千代の念持仏を納める厨子。玉虫厨子と同じくすっかりすすけているが、当時はさぞかしキンキラキンであったことだろう。
阿弥陀三尊像の蓮華座の下には彫刻で蓮池を表しているという。私の目の高さからは見えないが、その様子は大宝蔵院の中庭に再現されている。

百済観音
ひゅるるんと長身な仏様。面長な顔立ちは釈迦三尊像に似るがあちらにあった硬さはない。
百済観音と呼ばれるのは百済伝来説があったからだが、今は日本国内でつくられた説のほうが有力。
横に回って見てみると、ゆるくS字を描いた薄い胴と袖から流れる衣が美しい曲線を描く。水瓶をつまむ指先の動きも優美。光背を支える支柱には竹風の装飾がほどこしてある(最初本物の竹かと思った)。

 ほほゑみて うつつごころに ありたたす くだらぼとけに しくものぞなき  會津八一

1997年は「フランスにおける日本年」で、百済観音は日本を代表する美術品としてルーヴル美術館に貸し出されていた。大宝蔵院は98年落成とのことなので、すると工事の間にフランス旅行をしてきたのだね君は。
百済観音のお返しに翌年日本にやってきたのがドラクロワの『民衆を率いる自由の女神』である。
本来仏像はこのようなガラスケースに入った状態で見るべきものではないとは思うのだが、ぱっと見る限りでもかなり傷みが激しいので仕方ないのかな。

早めに取り外されていたため奇跡的に火難を逃れた金堂の壁画もここに展示されていた。
燃えてしまった寺宝は樹脂をかけられ、そのままの状態で大宝蔵院そばの倉庫に保存されているそうだ。

西院伽藍と東院伽藍は土塀に挟まれた長い参道でつながれている。
この一帯は若草伽藍の敷地内であったはずだ。若草伽藍とは現在の法隆寺の前身、聖徳太子によって創建され、670年に焼失した「元祖」法隆寺である。
この塀の南側に若草の塔の心礎があるはずなのだが、どこから入るのか分からず見ることができなかった。一般客は見学できないのだろうか。
今に残る法隆寺が創建当時のものなのか、それとも日本書紀にあるように焼失して再建されたのかについては、長らく議論の的となっていた。この法隆寺再建論争に一応の結着をつけたのが、若草伽藍跡の発掘だった。
若草伽藍はまた聖徳太子の子供たちの悲劇の舞台でもあったとされる。
日本書紀によると、聖徳太子の長男山背大兄王は皇位継承問題をめぐって蘇我蝦夷・入鹿父子と対立。そして643年、入鹿は斑鳩宮に山背を襲撃する。
一旦は生駒山に逃れた山背だったが、「軍を起こせば入鹿に勝つこともできようが、私一人のために多くの人を死なせるよりは、この命を入鹿にくれてやろう」と言い、弟妹や子など22人をひきつれてこの斑鳩寺の塔に入ると、一族もろともに首を縊って果てた。
そして山背の死から数十年後、残された斑鳩寺もまた大火に遭い「一屋も余ること無」く灰燼に帰すのである。

《夢殿》

 ゆめどのは しづかなるかな ものもひに こもりていまも ましますがごと   會津八一

『日出処の天子』を読んで以来、この歌がホラーとしか思えなくなってしまった私……。
現在の夢殿はもちろん聖徳太子がおこもりした建物ではなく、斑鳩宮跡が荒れ果てていることに胸を痛めた行信僧都が、天平時代に建てたもの。
夢殿内部にはその行信の座像もある。金網にはり付いてのぞき込むと、頬骨が高く目の吊り上がった意志の強そうな顔立ち。鬟姿の聖徳太子像もあったが、ガイドさんが私の方をみて言うには「この像はたぶん……お嬢さんよりも若いですね」。新しいらしい。

 あめつちに われひとりゐて たつごとき このさびしさを きみはほほゑむ  會津八一

夢殿の本尊である救世観音を詠んだ歌。いい歌である。
救世観音は秘仏なので、普段は公開していない。


ここでちょっと嫌な話を。
夢殿に通じる東大門の柱に、一本だけ覆いがかけられている。
今年四月、この柱に石のようなもので落書きがされているのを職員が発見した。
彫られていた文字は「みんな大スき」。若者の犯行と思われる。よりにもよって馬鹿丸出しな落書きで恥ずかしいったらありゃしない。
この痴れ者の頭上に厩戸王子の怒りの石礫が降ればよろしいと思う。

とりあえず法隆寺の見学はひととおり済み、ここでガイドのおじさんとはお別れ。
自分たちだけで回っていたら気づかないようなことを色々教えてもらえて楽しかった。ありがとう。
こういうボランティアに参加できるって羨ましい。
おじさんに別れを告げ、私たちは夢殿に隣接する中宮寺へ。

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