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2003.9.22(月)

二日目

■金木

金木は、私の生れた町である。津軽平野の中央に位し、人口五、六千の、これという特徴もないが、どこやら都会ふうにちょっと気取った町である。善く言えば、水のように淡泊であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊の町という事になっているようである。(『津軽』p.5)

津軽五所川原駅に向かう途中、駅前の大通りから1本東側の通りに「津島歯科」という看板を発見した。このへんには津島さんが多いのねと思って何の気無しに通り過ぎたのであるが、帰京後に太宰文学研究会のHPを見ていたら、こここそがきゑさんの家であることが判明した…。いまはお孫さんにあたる方が経営されているそうだ。
まさかすべてが太宰の親戚ではあるまいが、「津島」の名がつくお店や看板はところどころで見かけた。「福士」「葛西」さんも多い。いずれも関東ではあまりお目にかからない名前である。


津軽鉄道「走れメロス」号

「走れメロス」号はすでにホームに到着していた。
ストーブ列車として有名な津軽鉄道だが、この時期は鈴虫列車である。鈴虫は小学生の頃、教室の後ろなどで飼っていて、先生の声が途切れた折などに不意に「リーン…」と鳴く、というイメージがあったのだが、ここの鈴虫はひっきりなしに鳴いている。
運転手は私と殆ど同じくらいか、ことによったらもっと若いかもしれないくらいの青年だった。乗客は地元の人が多い。
9:50に発車。
線路の両脇は一面の田園風景である。頭を垂れた稲穂が延々と並ぶ様は、かつて毎年のように凶作と飢饉に襲われていた土地とも思えない。もっとも冷夏だった今年も不作の声は聞こえているようだが、風景だけ見ている分にはいかにも豊穣な大地といった印象。

30分ほどで金木駅に到着。ホームに降りて後ろを振り返ると、田圃の上に浮かんでいるような、岩木山の優美な姿が見えた。
駅舎は工事中だった。架設の出口を出て、駅前のとおりを道なりに進む。カフェ・太宰というピザ屋がある。
さらに歩くと道は二股に分かれて、「斜陽館 どちらからでも行けます」と標識が立っている。方向音痴なので助かる。なんとなく右にいってみることにした。
町役場や郵便局を横目で見ながら行くと、やや大きい通りにぶつかった。今度は表示も案内もない。さてどちらにいったものかととりあえず左にまがると、目の前に斜陽館があった。

■金木町太宰治記念館「斜陽館」

遠目にも目立つ巨大な赤い屋根が秋晴れの空に聳える。小作争議を警戒して造られたという高い煉瓦塀がぐるりを囲み、要塞のようないかめしさだ。
観光客が群がっているかと思ったが、人影は少ない。入場料500円を払って中に入る。

この家は金木一帯の大地主であった太宰の父・津島源右衛門が当時の金で二万円を投じて造らせた総檜葉材、入母屋造りの豪邸である。太宰はこの家で生まれた最初の子であり、青森中学に入学するまでここで暮らした。

「この父はひどく大きい家を建てたものだ。風情も何もないただ大きいのである。」(『苦悩の年鑑』)と太宰は記しているが、なるほど「豪邸」という言葉からふつう思い浮かべる皇族や旧華族の屋敷とは違う。むしろ開放的な商家風の造りである。

玄関を入るとすぐに広い土間になっている。かつて米の検査を待つ小作人たちが列をつくっていた場所。積み上げられた米俵は、そばの米蔵に次々と運ばれたのだろう。太宰はこの米蔵で弟の礼治と遊んでいて、父に叱られた記憶を書いている。

板間に上がる前に、蔵を改装してつくられた展示室を見学する。資料・史料の類はほとんどここに集められているらしく、家族の写真や津島家の屋号「ヤマゲン」の名が入った日用品、太宰の衣類、原稿、長兄文治(青森県知事を務めていた)に宛てた書簡などが展示されている。
その中の何点かは太宰没後五十年に東京三鷹で催された展覧会に来ていたらしく、見覚えのあるものがいくつかあった。

一階部分は旅館時代には喫茶室として遣われていたのを、現在の太宰治記念館として整備するにあたって床を張り、かつての姿を再現したのだという。確かに床材は新しく、油断すると滑りそうなくらいつやつやしている。
一家の権力者だった太宰の祖母いしが、その側で使用人たちにあれこれ指図したと言われる囲炉裏、太宰の生まれた小座敷、かつて豪華な仏壇が置かれた仏間などを見学した後、ロココ風の装飾が施された階段を登って二階へ行く。
和洋折衷様式は斜陽館の特色の一つで、当時この界隈でシャンデリアのある家など皆無に近かったのではないか。二階には絨毯を敷き詰めた洋間もあり、文治の応接間として使われていた。
しかしこれだけの広大な邸宅に、六男修治の部屋はなかったのだ。長子とそれ以外の子の身分に大きな差があった時代の話である。

見学を終えて一階に戻ると、土間の一画に来館者ノートが設置されているのに気づいた。
中高生の書き込みが面白い。
「おさむさん、家ひろ→い! 半分分けて」
太宰を「おさむ」と呼んでいるのが新鮮である。しかし、「おさむと結婚したかったよ→残念!」と書いていたお嬢さんには苦労するからやめとけと忠告したい。
もっと「同志」がいるかと思ったが、周囲は東北ツアーの途中に立ち寄ったという感じの熟年カップルばかりで少し残念だった。シーズンオフなので全体に客の入りは少なく、ゆっくり見学できたのはありがたい。

そうこうしているうちにちょうどお昼時となったので、斜陽館を出て向かいの土産店マディニーに入る。

斜陽羹(笑)や太宰餅などといったナイスなネーミングのみやげを買い、併設のレストランへ。「太宰ラーメン」なるものを食す。太宰の好物だったという若布と根曲がり筍、豚の角煮がのったラーメン。味は…ちょっと麺が固い(ぼそ)。まあ、観光地のラーメンてことでこんなもんか。
レジのおばちゃんは、私の買いものを練習台に、新人らしき女の子に指導をしていた。のんびりしたものだ。

                  マディニーの看板。太宰ファンの心をくすぐる。→

■雲祥寺

公式サイト


雲祥寺

マディニーの駐車場を北方面に突っ切って、突き当たった道をしばらく行くと太宰の『思い出』に登場する雲祥寺がある。幼い太宰が女中のたけに連れられてたびたび遊びに来た寺だ。
鐘楼は修復中で、休憩中らしい工事の人がふたり、境内の隅に寝ころんでいた。

そのお寺の裏は小高い墓地になっていて、山吹かなにかの生垣に沿うてたくさんの卒塔婆が林のように立っていた。卒塔婆には、満月ほどの大きさで車のような黒い鉄の輪のついているのがあって、その輪をからから回して、やがて、そのまま止ってじっと動かないならその回した人は極楽へ行き、一旦とまりそうになってから、又からんと逆に回れば地獄へ落ちる、とたけは言った。(『思い出』)




ここで登場する卒塔婆は後生車とも菩提車ともいい、特に子供の供養のために建てられることが多いらしい。その車輪を回すことで、経文を読むのと同じ功徳を為すことになるという。
お地蔵様の隣に立っていた古びた後生車の鉄輪を、私も恐る恐る回してみた。輪は鈍い音を立ててひとしきり回ったあと、ぴたりと止まった。

雲祥寺はまた、江戸期制作とされる「十王曼陀羅」があることでも知られている。
少し長くなるが、再び太宰の『思い出』から引用しよう。


たけは又、私に道徳を教えた。お寺に屡々連れて行って、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。火を放けた人は赤い火のめらめら燃えている籠を背負わされ、めかけ持った人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながっていた。血の池や、針の山や、無間奈落という白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、到るところで、蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでいた。嘘を吐けば地獄へ行ってこのように鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされた時には恐ろしくて泣き出した。

本堂に「地獄絵ご自由にご覧ください」の札がかかっていたので、靴を脱いであがってみる。ほかに参拝客の姿はない。
十王曼陀羅は、太宰の頃は旧正月と盆にしか開帳しなかったそうだが、今は一年中見ることができる。どんなおどろおどろしいものかと思っていたが、鮮やかな色彩で描かれた鬼や亡者たちの姿はどことなくユーモラスですらあった。保存状態もかなりよい。上の方に九相図が描かれているのが興味深く、つい太宰を忘れて見入ってしまった。

■芦野公園・川倉賽の河原地蔵尊


住宅街の中に、「太宰治思い出広場」と名付けられたスペースがあった。
中央のベンチを囲む煉瓦塀に、太宰の全作品のタイトルが書かれたタイルが埋め込まれている、というマニアックな広場。でも、これらの作品を全部読んでる私はもっとマニアック。
太宰が少しだけ通った明治高等小学校跡の碑の横を通りすぎてしばらく行くと、芦野公園に着く。疲れたので、旧駅舎を改装した喫茶店ラ・メロスに入り、アイスコーヒーを注文。太宰は『津軽』の中で、この駅舎についても触れている。


窓から首を出してその小さい駅を見ると、いましも久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、大きい風呂敷包みを二つ両手にさげて切符を口に咥えたまま改札口に走ってきて、眼を軽くつぶって改札の美少年の駅員に顔をそっと差し出し、美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、まるで熟練の歯科医が前歯を抜くような手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた。少女も美少年も、ちっとも笑わぬ。当り前の事のように平然としている。(『津軽』p.162)

芦野公園は巨大な井の頭公園といった雰囲気。
太宰が井の頭公園を好んだのも、池にかかる橋や鬱蒼とした雑木林に故郷の公園の面影を見たからかもしれない。…と、これは武蔵野の民である私の妄想だが。

池のほとりには太宰の文学碑が建つ。
太宰が好んで口にしたというヴェルレーヌの詩の一節「撰ばれてあることの 恍惚と不安と 二つわれにあり」が刻まれている。
映画「ピカレスク」では太宰に扮した河村隆一が鉄格子を掴んでこの言葉を絶叫する、役者魂炸裂なシーンがあった。
金木の太宰生誕祭はこの碑の前で行われるそうだ。

日暮れにはまだ間があったので、タクシーを呼んで芦野公園の東側にある川倉賽の河原地蔵尊まで足を延ばしてみた。
地蔵堂の横にタクシーを付けて貰い、中に入る。化粧地蔵と呼ばれる、津軽地方独特の白塗りの地蔵が正面に立っている。その両脇にも大小さまざまな地蔵たち。祭壇の裏側に回ると、雛壇のようなものが設えてあり、数百体はあると思われる地蔵たちが並んでいた。その多くが色とりどりのよだれかけや着物を着せられている。幼くして亡くなった子供たちの供養のために奉納された地蔵たちだ。

地蔵堂の隣にある人形堂には、無数の花嫁人形が安置されていた。未婚のままで亡くなった子供のために親が奉納したものらしい。人形と一緒に納められている写真は、子供のものもあれば戦死した人と思われる軍服姿のものもある。靖国神社の遊就館にも同じものがあったことを思い出す。
お堂を出ると、池の方に下る道の端で赤い風車がからからと回っていた。

ここ川倉賽の河原地蔵尊では、毎年旧6月23日と24日の両日例大祭が行われ、イタコの口寄せがあるという。
今はどうなのか知らないが、かつてはこの祭りの晩に近隣の男女がお堂に泊まる習慣があったらしい。つまり若い男女の逢い引きの場(当然性交渉を伴っただろう)ともなっていたということだ。津島美知子著『回想の太宰治』の中で、太宰と再会した越野たけがこの野宿に参加し、太宰が渋い顔をしたというエピソードがある。
タクシーの運転手さんは親切で愛想のいい人だったが、津軽弁が聞き取れなかったのが残念。もう一度津軽鉄道に乗りたかったので、芦野公園駅まで行ってもらい、そこから電車に乗って五所川原に戻った。


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