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2003.9.23(火)

三日目

■小泊

ホテルをチェックアウトし、かさばる荷物を五所川原駅のロッカーに預けた。小泊行きのバスは9時ちょうど発。片道約2時間の道のりだ。
太宰が『津軽』執筆のための旅に出た当時は、津軽鉄道で津軽中里まで行き、そこからさらにバスで2時間かかったそうなので、その頃と比べるとやや便利にはなったのかもしれない。しかしやはり鉄道が通っていないというのは、地元の人にとっては不便なことも多かろうと推察する。
「鉄道は文化の尺度」を信条とし、津軽鉄道の設立にも関わった津島文治は、本当は小泊まで鉄道を延ばしたかったようだ。しかし、資金面などの事情で断念せざるを得なかったという。

小泊行きのバスには金木経由、十三経由の二種類があり、私が乗ったのは金木経由。しばらく走ると、「ようこそ太宰の町へ」と書かれた看板と太宰の肖像が刻まれた大きなレリーフが見えてきた。故郷と家に拒まれ続けた太宰であるのに、今ではすっかり町の顔だ。「太宰通り商店街」「ビジネスホテル太宰」(ビジネスマンと太宰…似合わない)といった文字も見える。
熱心な太宰ファンの中には金木の観光地化を憂い、その俗っぽい商業主義に眉を顰める向きもあるようだ。しかし、それこそ余所者の傲慢といったものではないだろうか。これといった産業もなく、若い人口の流出に悩む地方の町が、郷土の偉人を宣伝塔に観光客誘致に励む姿を嗤うことは、同じく地方出身者である私にはできない。
ちなみに金木は太宰の他にも吉幾三、羽柴誠三秀吉などの有名人を輩出しており、町の規模のわりにはなかなかのものだと思う。
バスの窓からは太宰が通った尋常小学校跡の標識が見えた。

景色を見ていて気がついたのだが、このあたりには瓦葺きの家というのがほとんどない。斜陽館もそうだったが、豪邸でも大伽藍でも、屋根は色とりどりのトタン屋根である。豪雪対策なのだろう。
気がつくと乗客は私を含め三人だけになっていた。周囲を走る車も少ない。しばらくうつらうつらする。
ふとまぶしさを覚えて目をさますと、窓の外に広々とした水の広がりがあった。
十三湖だ。

やがて、十三湖が冷え冷えと白く目前に展開する。浅い真珠貝に水を盛ったような、気品はあるがはかない感じの湖である。波一つない。船も浮んでいない。ひっそりしていて、そうして、なかなかひろい。人に捨てられた孤独の水たまりである。(『津軽』p.164)

十三湖と聞いて思い出すのは小学校のときに読んだ絵本『十三湖のばば』だ。十三湖のそばに住む老婆が、11人の子を産みながら貧困の中でその殆どを失っていく過程が淡々と語られる。
腰切り田。繰り返される洪水と飢饉。水虎さま。それらは、当時津軽がどこにあるのかさえ知らなかった小学生の私にさえ、強い印象を残したのだった。
いまバスの窓から見る十三湖は、「ばば」の苦しみに満ちた人生とは結びつけようがないほど静謐で、穏やかである。
日本海から海水が流れ込む十三湖はまた、美味しいシジミがとれることでも有名である。できるものなら途中下車して味わいたかったが時間がないので諦めた。とはいえ、バスの窓にはりついて「蜆ラーメン」の幟を見ながら未練タラタラ。近くには近年発掘された幻の中世都市、十三湊遺跡もあり、ここもいつか見学したいものだ。

十三湖を過ぎてしばらく行くと、左手に日本海が姿を現す。荒々しい海岸線は、まさに絶景。岩木山が、金木や五所川原で見るよりもずっと小さく、しかし同じように優美な姿で海の上に浮かんで見える。

ここは人口二千五百くらいのささやかな漁村であるが、中古の頃から既に他国の船舶の出入があり、殊に蝦夷通いの船が、強い東風を避ける時には必ずこの港にはいって仮泊する事になっていたという。江戸時代には、近くの十三港と共に米や木材の積出しがさかんに行われたことなど、前にもしばしば書いておいたつもりだ。いまでも、この村の築港だけは、村に不似合いなくらい立派である。(『津軽』p.164)

小泊は日本海側最北の港町である。その港は現在整備中であるらしく、真新しい橋と、その欄干に据えられたライオンの像がはるか眼下に認められた。
「小泊小学校前」で降り、坂を上って小説「津軽」の像記念館へ。

『津軽』のクライマックスは、太宰が子守のたけと再会するラストシーンだ。私は昨晩、五所川原のホテルでこの箇所を読み返していた。
たけを訪ねて、太宰は彼女の婚家がある小泊へやって来る。しかし、たけの家には鍵がかかっていて会えない。聞けば、小学校の運動会に行っているという。
太宰は運動場でたけを尋ね歩くが、大変な人出の中、三十年前に別れたきりのたけを探し出すのは容易なことではない。
「帰ろう。考えてみると、いかに育ての親とはいっても、露骨に言えば使用人だ。女中じゃないか。お前は、女中の子か。男が、いいとしをして、昔の女中を慕って、ひとめ会いたいだのなんだの、それだからお前はだめだというのだ」
一旦はそう思うものの、やはり諦めかねて、もう一度たけの家に行ってみる。すると、戸が少し開いている。声をかけると一人の少女が出てきた。たけの娘である。腹痛を起こして、薬を取りにきたのだという。
この少女の案内で、太宰はついにたけと再会する。

たけは笑いもせず「あらあ」とつぶやき、太宰を掛け小屋に招き入れた。彼女と並んで運動会を見ながら、生まれて初めて心の平和を得た、と感じる太宰。
やがてたけは立ち上がり、「龍神様の桜を見に行こう」と誘う。そして龍神様の境内で、初めて堰を切ったように語り出すのである。 折り取った桜の枝から花をむしっては捨て、むしっては捨てながら。

「久し振りだなあ。はじめは、わからなかった。金木の津島と、うちの子供は言ったが、まさかと思った。まさか、来てくれると思わなかった。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかった。修治だ、と言われて、あれ、と思ったら、それから、口がきけなくなった。運動会も何も見えなくなった。三十年ちかく、たけはお前に会いたくて、会えるかな、会えないかな、とそればかり考えて暮していたのを、こんなにちゃんと大人になって、たけを見たくて、はるばると小泊までたずねて来てくれたかと思うと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいじゃ、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行った時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持ってあちこち歩きまわって、庫の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに昔噺語らせて、たけの顔をとっくと見ながら一匙ずつ養わせて、手かずもかかったが、愛ごくてのう、それがこんなにおとなになって、みな夢のようだ。金木へも、たまに行ったが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでいないかと、お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ」(『津軽』pp175-176)

ここで俺、号泣。
この作品はあくまで小説だ。フィクションなのである。
初めて読んだ時はこの再会シーンもお涙頂戴に思えて白けたものなのに、今になってまんまと太宰の術中にはまっている私。土地の力とは凄いものだと思う。

記念館はたけと太宰が再会した小学校のグラウンドを望む位置にあり、庭には『津軽』のラストシーンを再現した像があの日のふたりさながらに並んで座っている。青年太宰(メロス風)、少年太宰、若き日のたけさんの胸像もあった。


「津軽」の像

斜陽館には一般の観光客も多く訪れるのだろうが、小泊まで来るのは太宰ファンくらいなものらしく、見学者は私一人だった。来館者ノートも最後の日付が三日前で、運営していけるのだろうかと他人事ながら少々心配になる。ファンとしては、太宰関連の施設が「不要なハコモノ」などと言われて非難されたら辛いのである。
記念館は、たけさんの写真や遺品を多く展示していた。若き日のたけさんは、はっきりした顔立ちの美人である。ご夫君がまたイケメンでびっくり。太宰と再会したときに締めていたというアヤメの帯もちゃんと飾られていた。
音声コーナーではたけさんや娘の節さんの談話、太宰の合成音声が聞けるようになっている。骨格から再現したという太宰の声はちょっとニヤけていた(涙)。

ひととおり見学したが、次のバスまで1時間以上ある。さてこれからどうしたものか。港まで出て、たけさんの嫁いだ越野金物店を見てこようか。思案しつつ外に出ると、一人の男性が玄関横の少年太宰像になにやら絵の具のようなものを塗っている。「津軽の像」制作者の田村進氏であった。

聞けば仕上げの作業をしているのだという。海風が吹き付ける気候の関係上、緑青がうまく定着しないのだそうだ。
生前のたけさんの話を聞く。彼女は若き日の写真を公開したがらなかったとのこと。若いたけさんのイメージが流布すると、彼女こそ太宰の初恋の人のように邪推する人が出てくる、それを危惧したのではないかと。
「でも私は若くてきれいなたけさんの像をどうしてもつくりたくてね」
たけさん像に薬剤を塗りながら田村氏はそう語った。

作業の様子をビデオで撮影していた女性と、そのお嬢さんらしき中学生くらいの女の子と4人でわいわい写真を撮ったりしていると、一組の男女が記念館の階段をのぼってきた。
男性の方が、連れの品のいい老婦人を示し、田村氏に「こちら、たけさんの…」と紹介する。会釈するそのお顔に見覚えがある。しかもついさっき見た気がするぞ。
「あのーもしや…たけさんのお嬢さんでは」
おそるおそる尋ねてみると、まさに。太宰を運動場まで案内した、たけさんの五女柏崎節さんであった。

あ、あなたが太宰をして「この少女ときょうだいだ」と言わしめたあの少女ですかっ(昨日読み返したばかりなので記憶も鮮明)。あなたが腹痛起こしてくれたおかげであの名作がっ(昨日泣いたばかりなので鮮明)。実は仮病だったそうですが仮病のおかげであの名作がっ(ついさっき記念館で知ったので鮮明)。
しかしその10分の1も言葉にならない。
「あの時ご自宅に戻られたから、ふたりは再会できたんですよね」やっとそれだけ言うと節さんは「ここでずいぶん探したんでしょうね、でもあれだけ大勢の人がいたらねえ」と仰った。
津軽の像のそばには、津島園子氏の筆による『津軽』の一節が刻まれた碑が置かれている。

たけはそれきり何も言わず、きちんと正坐してそのモンペの丸い膝にちゃんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見ている。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう安心してしまっている。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に一つも思うことが無かった。もう、何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持の事を言うのであろうか。もし、そうなら、私はこの時、生まれてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい。…しばらく経ってたけは、まっすぐ運動会を見ながら、肩に波を打たせて深い長い溜息をもらした。たけも平気ではないのだな、と私にはその時はじめてわかった。でも、やはり黙っていた。 (『津軽』pp172-173)

この部分を読んで、田村氏は「津軽の像」を制作することを決めたのだという。小泊村としては、たけさんと太宰が手を取り合って再会を喜んでいるようなドラマチックな像を希望していたらしいが、田村氏はそれでは『津軽』のよさは表現できないと思い、二人が座って、静かに運動会を眺めている場面を形作った。
田村氏いわく、この太宰の顔は下からのぞき込まなければその良さがわからないそうで、「だからさあさあ、上に登りなさい、旅の人!」と促され、私は台座に登らされてしまった。知らない人が見たら、完全に不埒な観光客である。しかし後で写真を見てみたら、膝枕状態で太宰の頬に手をあてる私の顔は異様に嬉しそうであった。
節さんはきょうだいの中で一番たけさんに似ているそうで、たけさん像のとなりに並ぶとまさに瓜二つといっていいほどよく似ている。節さんに会うのは初めてだという田村氏も、みずから制作した像との相似に驚き、また満足していた。
そうこうするうちに、バスの時刻が迫ってきたので名残惜しいが暇乞いをする。田村氏は、小泊村折戸地区〜下前地区間に建設中の「ライオン海道」を飾る像(来る途中に見えたのはこれだ)を制作中で、その取材を受けるために今日はやってきたのだそうだ。一行はその現場に向けて出発していった。

貸し切り状態のバスに二時間揺られ、ふたたび五所川原へ向かう。途中、木造町を通った。津島家に婿養子に入った太宰の父、源右衛門の生まれた町である。太宰は『津軽』の旅の途中でこの父の生家を訪ね、ヤマゲン(現在の斜陽館)がその間取りに似せて造られていることに気づき、ほほえましいような思いを抱いている。


バスから降りたとたんにひどい空腹を感じ、初めて朝から何も食べていなかったことに気づいた。弘前行きのバスが出るまで間があったので、駅前の喫茶店珈琲詩人でホットケーキセットを食べる。
駅前はやはりひっそりしている。一昨日は日曜日だからかと思ったが、よく見ると単なる休業ではなく、空店舗が目立つ。明るい日の光の中で見るアーケードはいかにも古びていて、さびれた雰囲気である。ただ、主な交通手段が自家用車であるようなこういう地方の街では、郊外のほうがむしろ発展している場合も多いので、駅前の寂しさだけを見て街が衰退していると思うのは早計かもしれない。

弘前までは直通の長距離バスで行く。すっかりおなじみとなった弘南バス。所要時間は約一時間。
バスの窓から見える岩木山がだんだん姿を変えていく。金木や五所川原から見た姿は優美繊細だが、弘前方面から見るとどっしりした男性的な姿で、立身出世少年の典型のような佐藤紅緑が、ふるさとの山として仰ぎ見たのも分かる気がする。
夜は、父オススメの山唄という店に行く。津軽三味線ライブを見ながらお酒を飲める店。演奏は素晴らしく、食事も美味しかったが、女一人で居酒屋というのはやはり居心地が悪い。もう少し大人になれば楽しめるのかもしれないが…。
一時間ほどで退散し、イトーヨーカドーの書店で津島家の歴史を書いた『津軽・斜陽の家』を買って帰った。


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