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2009.6.19(金)

金木

いよいよ太宰生誕祭当日。
8:48弘前発のリゾートしらかみの切符を買うため、窓口に並ぶ。駅員さんが「桜桃忌でしょ? だったらフリーパスを買った方がお得だよ」と教えてくれた。津軽地方の電車が乗り放題になり、またチケットを呈示することで提携のお店での割引きなども受けられるそうだ。
五能線はこの電車に乗ることだけを目的にやって来る観光客もいるくらい、ロケーションが良いことで有名な路線だ。しかしよくポスターなどに使われている海沿いの風景は五所川原よりも先にいかないと見られないらしく、私が目にしたのは特に面白くもないような風景だった。せめて岩木山が見えれば良かったのだが、天気が悪くてどこにあるのかも判然としない。見えるのは田圃と畑、林檎の木、葡萄の木。林檎の木は背が低くて横に広がった樹形、葉っぱがちょっと白っぽくくすんだ緑なのも柔らかみがあってかわいらしい。よく見るとごくごく小さな実が生っている。すでに袋を被せられているものもある。
川部駅でしばらく停車した後、進行方向を逆にして五所川原へ向かう。この路線は私鉄陸奥鉄道が1918年に開通させたもので、陸奥鉄道の役員には太宰の父の津島源右衛門も名を連ねていた。また五所川原から利用する津軽鉄道は太宰の長兄津島文治らが情熱を傾けて敷設した路線であり、私が今日こうして快適な鉄道の旅ができるのも、言ってみれば津島父子のおかげである。


五所川原駅に降り立つと、連絡通路を挟んで向こう側の津軽五所川原駅のホームにはすでに電車が停まっていた。急いで階段を下りる。あちこちに「太宰生誕百年」の旗が飾られていて、スーツ姿の男性と若いカップルがその様子をカメラで撮りながら歩いていく。ほぼ間違いなく、同志であろう。


車内にはおそらく鉄道員の手作りなのだろう、太宰の『津軽』に関連した飾り付けがなされていた。
発車すると「トレインアテンダント」のお姉さんが一席一席まわってきて挨拶。しかし、通路を挟んで隣に座っていた謎の中年カップルと話が始まってしまったのでお姉さんとはほとんど話せず。

金木駅には綺麗な駅舎ができていた。土産物屋まである。
駅から斜陽館までの道の途中に、二年前から公開が始まった「太宰治 疎開の家」がある。もともとは文治の結婚に合わせて建てられた「新座敷」と呼ばれる離れだったが、直後に父の源左衛門が急死し、若夫婦は母屋に移ったので、ほとんど使われることはなかった。その後は太宰たちの母の病室になったり、疎開中の太宰一家が住んだりしている。母屋(現在の斜陽館)が人手に渡った後は、この離れは切り離されて文治夫妻の住居となった。
見学するには隣のお店で受付をするとのことなので声を掛ける。女性二人と、五所川原駅で見かけたスーツの男性も加わった。

■太宰治 疎開の家



みんな揃ったところで見学開始。係の男性によると、こんなにたくさんの人を案内したのは初めてだと言う。普段は一日二人くらいしか来ないそうだ。斜陽館に来る客のほとんどは観光バスでやってきた人たちで、特に太宰のファンというわけではないのだろうから、そんなものだろうと思う。
火鉢のある部屋で、かつての津島家の広大な敷地が記された地図を見ながら説明を受ける。金木の昔の写真も見せてもらった。トロッコに人が乗っている写真。居眠りでもしたら転がり落ちそうだ。
この離れは津島家が手放した後はこの地で呉服屋を営んでいた方が買い取って、反物の倉庫や繁忙期の客間として利用していたのだという。係の男性はその呉服屋の息子さんで、彼も子供の頃はここを遊び場にしていたそうな。
彼は最近まで特に太宰に興味はなかったというが、ここを記念館として公開すると決めた二年前に、初めて太宰を読んだ。そして、母タネの臨終の場面に出て来るのが、今まさに話をしているこの部屋であることを知り、鳥肌が立ったという。


母は離れの十畳間に寝ていた。大きいベッドの上に、枯れた草のようにやつれて寝ていた。けれども意識は、ハッキリしていた。
「よく来た。」と言った。妻が初対面の挨拶をしたら、頭をもたげるようにして、うなずいて見せた。私が園子を抱えて、園子の小さい手を母の痩せた手のひらに押しつけてやったら、母は指を震わせながら握りしめた。
 (太宰治『故郷』)

1942(昭和17)年10月、義絶されて以来二度目の帰郷での場面である。その前年にも単身で一度帰郷しているのだが、そのときは家長である長兄の留守を狙った(文治も知っていて黙認したのだろうが)いわば非公式の訪問だった。二度目のこの時になってはじめて太宰は妻子を伴い、長兄とも顔を合わせたのである。太宰は33歳になっていた。
太宰の母、タ子(たね)は11人の子を産んだが、そのうち5人に先立たれた。長男総一郎と次男勤三郎は生後まもなく、長女のタマは24歳で、七男で末っ子の礼治は18歳で、五男の圭治は28歳で。タ子自身も体が弱く、寝付くことが多かった。そんな彼女が一番心を痛めていたのがやはり問題児であった太宰のことで、太宰が田辺あつみと鎌倉で心中事件を起こして義絶されてからも、出入りの呉服商だった中畑慶吉に「修治をよろしく頼みます」とたびたび言っていたという。
タ子はこの約二ヵ月後の12月10日に死んだ。
タ子を知る人はみな、オガサは優しくてきれいな人だったと言う。太宰は「生れて、すみません」と書いたけれど、私は「お母さん、太宰を産んでくれてありがとう」と言いたい。


床の間の隣が太宰が執筆活動を行った部屋である。『冬の花火』などがこの部屋から生まれた。
この日は三鷹の太宰治文学サロンから朗読の人が来るということで、機材が置いてあった。
寄せ木細工の廊下。廊下からはガラスを通して洋間が見える。
母を見舞っていた太宰は「どうにも我慢出来ず」、そっと母の枕元から離れて廊下に出、一人でこの部屋にやって来た。


洋室は寒く、がらんとしていた。白い壁に、罌粟の花の油絵と、裸婦の油絵が掛けられている。マントルピイスには、下手な木彫が一つぽつんと置かれている。ソファには、豹の毛皮が敷かれてある。椅子もテエブルも絨氈も、みんな昔のままであった。私は洋室をぐるぐると歩きまわり、いま涙を流したらウソだ、いま泣いたらウソだぞ、と自分に言い聞かせて泣くまい泣くまいと努力した。(略)
 日が暮れた。私は母の病室には帰らず、洋室のソファに黙って寝ていた。この離れの洋室は、いまは使用していない様子で、スウィッチをひねっても電気がつかない。私は寒い暗闇の中にひとりでいた。
 (太宰治『故郷』)

太宰がこの部屋で男兄弟たちと一緒に撮った写真が残っている。写真に写っているマントルピースが、今もそのままの位置にあった。
後年の太宰の色男ぶりを知っている身には、太宰が自分はきりょうが悪い、容貌がみにくいと繰り返し書くのが不思議に思えたのだが、こうして兄弟で撮った写真を見ると納得するものがある。


津島兄弟
前列左から圭治、文治、英治
後列左から礼治、修治(太宰)

※クリックで拡大します

長兄文治は見るからに貴公子然とした風貌だし、三兄圭治は現代でも通用しそうな凄艶な美貌、弟の礼治も小造りでかわいらしい。次兄英治は「太宰の諸特徴をひとまわりずつ増大したような」と美知子夫人は書いているが、写真を見る限りではお殿様っぽい上品な人である。太宰だけが泥くさい文士の顔をしている。

今このマントルピースの上には、最近発見されたという写真が飾られている。
上に掲げた写真と同じ日に撮ったものだろうか、太宰が圭治、礼治と並んでいて、太宰の膝の上には文治の長女陽さんが抱かれている。圭治が抱いているのも親戚の女の子だと聞いたのだが、名前を失念してしまった。

 


壁際にはハメコミ式のソファー。母を見舞った後の太宰が「黙って寝ていた」のはこのソファーだろうか。
『ヴィヨンの妻』に主演する松たか子が最近やって来て、ここに座ったという。私たちも座らせてもらった。

外に出て改めて建物を見る。外壁はささくれだっている。『津軽・斜陽の家』では「雪国では珍しい瓦葺」と書いてあったが、今は斜陽館と同じようなトタン屋根が張られている。美知子夫人の回想では、すでに戦争中、この離れは瓦屋根の重みでたてつけが悪くなっている、とあり、実用性にも欠けることだし、戦後に張り替えたのだろう。

斜陽館の前の通りに出て、マディニーへ。食堂で太宰ラーメンと若生おにぎりを食べる。


山菜では春、シドミがまっ先に食膳にのぼった。次にアザミ、山ウド、ワラビ、ゼンマイ、ソデ、フキ、タラの芽、初夏に入って筍、ミズ。野生の筍は孟宗竹の筍と違い、アスパラガスくらいの太さでこれが一山、台所の床の上に置かれたのを一本一本切ったり剥いたり、私も教わりながら手伝ったが、その手数のかかること大変で、女手の揃っている家でなければと思った。この筍と新若布と、採れる時期が一致する合性のよい二つを実にした若たけ汁も太宰の好物だった。(『回想の太宰治』pp.106-107)


この記述を元に、太宰の好きなものを乗せたのが太宰ラーメンである。若生おにぎりは若生の自然な塩味が上品で美味しいが、梅干しなどの具が入っていてもいいのにと言い合う。
このおにぎりについては、美知子夫人はこう書いている。

外で飲んで帰りが遅くなるときは、おむすびを作って枕もとにおくことにしていた。炊きたての飯をワカオイという薄い昆布の間に挟んで両掌でヒタヒタおさえて、プツッとワカオイをかみきって食べるその歯ごたえ、自然の塩味、これが彼にとって最高の津軽風おむすびであった。(同書 p.102)

三鷹には最後までなじめなかったという美知子夫人だが、津軽での暮らしは物珍しくも楽しかったようで、非常に好意的に、そして生き生きと思い出を綴っている。戦中・戦後とはいえヤマゲンには食料があったし、嫂や姉たちも親切で、太宰はこの上なく健康的な環境で執筆活動に励むことができた。
それはまた太宰が妻子とともに持てた最後の団欒の時間だった。
帰京後の太宰は急速に心身の健康を損ない、わずか二年足らずで入水自殺を遂げた。美知子夫人が平穏だった津軽での日々を懐かしく思い返し、ユートピアのように書いたとしても無理はない。

お土産屋を冷やかす。6年前に買って小物入れにしている「太宰餅」の箱がくたびれてきたので新しいものを調達したかったのだが、売切れだった。
売店の隅には太宰グッズコーナーがあり、100種類のグッズが揃えられている。Tシャツを買おうとしたのだが、よく見るとタグに「Dazai in Mitaka」と書いてある。東京製! あやうくハワイに行ってメイドインジャパンの土産を買ってくる人みたいになる所だった。結局「太宰みそ」だけ買う。
太宰コーナーの隅に二重回しが置いてあって、ご自由に撮影くださいとあったので着て見る。レンタルサービスもあった。確か一日500円。暑さをものともせず、着て歩いている女性を見かけた。でもこれはやっぱり着流しの上に着ないといけない。
何時の間にか雨雲は消え去って、日差しが照りつけている。腕に日焼止めを塗らなかったことを悔いる。



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