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■斜陽館

公式サイト



生誕祭まであと一時間ほどに時間が迫っていたが、斜陽館を見ずに行くのもなんなので一応見学する。二人とも二回目なのでサーっと。意外にも前回来たときより空いていた。生誕祭なので、団体バスが敬遠したのかもしれない。

一階には十八畳の仏間、十五畳の和室×2、十五畳の茶の間。宴会のときなどは襖を外して六十三畳の大広間となった。
引き戸にはめ込まれたガラスは往時のもののようで、古いガラス特有のゆがみが見られる。


写真手前が「常居」。家族の居間である。その奥の茶の間は家長の居室ということで、敷居が一段高くなっている。
太宰はここで食事をした思い出を次のように語っている。

また、晩ごはんのときには、ひとり、ひとりお膳に向って坐り、祖母、母、長兄、次兄、三兄、私という順序に並び、向う側は、帳場さん、嫂、姉たちが並んで、長兄と次兄は、夏、どんなに暑いときでも日本酒を固執し、二人とも、その傍に大型のタオルを用意させて置いて、だらだら流れる汗を、それでもって拭い拭い熱燗のお酒を呑みつづけるのでした。ふたりで毎晩一升以上も呑むようでしたが、どちらも酒に強いので、座の乱れるようなことは、いちどもありませんでした。三兄は、決してそのお仲間に加わらず、知らんふりして自分の席に坐って、凝ったグラスに葡萄酒をひとりで注いで颯っと呑みほし、それから大急ぎでごはんをすまして、ごゆっくり、と真面目にお辞儀して、もう掻き消すように、いなくなってしまいます。とても、水際立ったものでした。
 太宰治『兄たち』

文治の長男康一は、疎開中の太宰がふたりの兄たちと車座になって酒を飲んでいたことを記憶していた。三人とも酒が強く、酔ってくるとくしゃみが出る癖があった。
この頃にはすでに五人いた男兄弟のうち二人が亡くなり、姉たちはお嫁に行って、母もすでに亡く、家族の食事風景もさびしいものになっていただろう。父の没後から助け合って家を守ってきた長兄文治、次兄英治は強い信頼関係で結ばれていた。勘当されていた修治が許されてそこに加わり、三人で改めて酒を酌み交わしたとき、兄弟の胸に去来した思いはいかなるものであっただろうか。


《小間》

小間といっても私がいま暮らしている部屋より広い。太宰はここで産まれた。

私は子供の頃、妙にひがんで、自分を父母のほんとうの子でないと思い込んでいた事があった。兄弟中で自分ひとりだけが、のけものにされているような気がしていた。容貌がまずかったので、一家のものから何かとかまわれ、それで次第にひがんだのかも知れない。蔵へはいって、いろいろ書きものを調べてみた事があった。何も発見出来なかった。むかしから私の家に出入している人たちに、こっそり聞いて廻ったこともある。その人たちは、大いに笑った。私がこの家で生れた日の事を、ちゃんと皆が知っていたのである。夕暮でした。あの、小間で生れたのでした。蚊帳の中で生れました。ひどく安産でした。すぐに生れました。鼻の大きいお子でした。色々の事を、はっきりと教えてくれるので、私も私の疑念を放棄せざるを得なかった。
 太宰治『六月十九日』


《仏間》

 

生家に帰ったときはまず最初に仏壇を拝むしきたりだったらしく、太宰も妻子もまずここに通されている。
2003年にはなかった仏壇。数年前に里帰りするまでは、津島康一の杉並の家に置かれていた。源右衛門が京都に特注して作らせたそうで、当時のお金で四百円という金額がどの程度なのかは分からないが、金色堂か日光東照宮かというくらいきらびやかなものだ。
康一さんの家がマンションなのか一軒屋なのかは知らないけれど、よくこれを普通の家に置いておいたものだと思う。
康一は父の跡を継ぐことなく役者になった。父文治の本心としては政治の道に進んでほしかったようだが、結局は息子の思うとおりにさせた。
文治自身、大学在学中には演劇にかぶれ、戯曲を書いたりしたものの、父の急死で方向転換を余儀なくされたという経緯があったし、大家の家長としての重責を誰よりも分かっていたから、息子には好きな道を歩ませてやりたいと思ったのだろう。
康一は2004年3月21日、舞台上で倒れて亡くなった。所属していた劇団仲間の公演中の出来事だった。文字通り死ぬまで舞台に立ち続け、役者として全うした人生であったと思う。

《トイレ》


一階廊下の突き当たりには客用のトイレがある。もちろんロープが張られていて今は使用することができない。

「便所は?」と私は聞いた。
 英治さんは変な顔をした。
「なあんだ、」北さんは笑って、「ご自分の家へ来て、そんな事を聞くひとがありますか。」
 私は立って、廊下へ出た。廊下の突き当りに、お客用のお便所がある事は私も知ってはいたのだが、長兄の留守に、勝手に家の中を知った振りしてのこのこ歩き廻るのは、よくない事だと思ったので、ちょっと英治さんに尋ねたのだが、英治さんは私を、きざな奴だと思ったかも知れない。私は手を洗ってからも、しばらくそこに立って窓から庭を眺めていた。一木一草も変っていない。私は家の内外を、もっともっと見て廻りたかった。ひとめ見て置きたい所がたくさんたくさんあったのだ。けれどもそれは、いかにも図々しい事のようだから、そこの小さい窓から庭を、むさぼるように眺めるだけで我慢する事にした。
 太宰治『帰去来』


シャンデリアが下がった豪華な階段を上がって二階へ。
二階には洋間が一間と、和室が七間ある。

《金襖の間》

大切な客のための客間として使われた。


《雀の襖絵のある和室》



《襖に「斜陽」の文字のある和室》



「斜陽」の字は左から二番目の襖下部にある
 


二階から台所を見下ろす。


文庫蔵の展示室では太宰が母と慕った叔母きゑの娘、りえの長押や箪笥が彼女の写真と一緒に展示されていた。津島家は「鄙にはまれな」美男美女揃いの一族だが、りえさんも例外ではなく、きれいな人であった。


■雲祥寺

公式サイト

斜陽館を出た後は、母が行ったことがないというので雲祥寺へ。前回工事中で見られなかった鐘楼が見られて感無量である。
後生車も回した。母のはちゃんと止まるのだが、どういうわけか私のだけ戻る。前回はちゃんと止まったのに。身に覚えはないのだが、この6年で何か地獄行きになるような悪いことをしてしまったらしい。でも地獄に行って太宰に会えるのならそれでもいいやと思う。



後生車を模した記念碑


■南台寺



同じ通りにある南台寺へ。ここには津島家の墓所がある。
見つけた瞬間、「え、これが」と声に出していた。金木の殿様の墓とは思えないほど質素な墓だ。質素と言うより寂しげといった方がいい風情である。植木らしい植木もなく、柵も門もない(かつては鳥居があったそうだが、取り払われたのか)。花はあがっていたが、数は決して多くなかった。これなら三鷹の太宰のお墓の方が余程立派だ。


メインの墓石が二つならび、その中央に「對馬性」の墓石がある。
津島家に伝わる『津島家歴史』は、山城国對馬村に居住していた源斉門四郎が、大阪落城とともに流浪し、やがて金木に流れ着いた、それが津島家の先祖であるとする。いつの頃からか對馬が津島になったというわけだ。
それではこの「對馬性」の墓石が津島家のルーツを伝える証人なのかというとそうでもないようで、津島康一は『津軽 斜陽の家』の著者鎌田慧の取材に対し「どっからかもってきたんじゃないかな」「うちの系図はやばいんですよ」と「恥ずかしそう」に語ったそうである。
太宰も文治も『津島家歴史』の記述を信じてはいなかったようだ。三厩の「義経伝説」を閉口して聞いた太宰は、我が家に伝わる怪しげな古文書をむしろ恥と思っていたかもしれない。
右手前には「津島文治墓所」と刻まれた石があるがその前には蝋燭立てがひとつぽつんとついているだけで花生けもなく、墓石なのか碑なのか判断しかねた。左手にあるお墓に手を合わせた。花を買って来なかったことが悔やまれた。

太宰が子供の頃、この寺では日曜学校が開かれていた。子守のたけは本を次々に借りてきては太宰に与え、太宰はそれらをむさぼるように読んだ。この寺もまた、太宰文学のふるさとである。
戦争中は比較的平和だった金木も空襲を受け、南台寺の本堂も破壊されたという。村人が何人か亡くなった。
鐘楼は津島文治が、鐘はその昔津軽公が寄進したものとのことである。





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