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■芦野公園


太宰通りを歩いて芦野公園へ。
たぶん6年前に通ったのもこの道だと思うのだが自信がない。前を歩く男女をおそらく同志であろうと信じてついていく。
途中「太宰治思い出広場」の前を通り、記憶が間違っていなかったことを確認して一安心。
雨雲はどこに行ってしまったのか、強い日差しが照りつけ、汗がにじむほどだ。真夏そのものといった日差しと、道端に咲いているタンポポやクローバーといった春の花がなんだかそぐわないように思う。あるお宅にはルピナスが華やかに咲いていた。


明治高等小学校跡の碑。
太宰は尋常小学校卒業後、青森中学に上がる前に、
「学力補充」のため一年間この高等小学校に通わされたが、
そのことは秀才を自任していた彼のプライドをいたく傷つけた。

金木小学校の横の道ともいえない道を突っ切って歩く。ちょうど昼休みの時間で、広いグラウンドでは子供たちが快活に遊んでいた。道の両脇には桜の木が植えられていて、春にはさぞかしいい眺めだろう。根が盛り上がっているためにアスファルトがぼこぼこしている。
芦野公園の入り口に置かれた飛行機を見て記憶が甦ってきた。そうだ。たしかにこんな場所だった。


売店の前を通り抜け、津軽鉄道の線路をまたいで、記念碑を目指す。四方八方から同志が集まって人数がどんどん増えてくる。
記念碑の近くには仮の駐車場が設けられていて、渡部教授や太宰の長女津島園子さんの名前を確認できた。前方には黒山の人だかりがある。
その中心で太宰の銅像が除幕式を待っているようだ。

みんなが集まっている所にもう少しで辿り着く、というその時に銅像の覆いがのけられた。涌き上がる拍手、シャッターの音。しまった微妙に出遅れた。
なんとか最後尾につらなって、木の陰から太宰像を見る。さいわい背の高い像なので見えなくて困るということはないし、公園という開放的な空間なので、圧迫感もない。等身大のリアルな像だった。銅像の台座は玉川上水の入水地点に置かれているのと同じ玉鹿石のようだ。
神主さんのお祓いの祝詞と、地元の子供たちの三味線演奏が始まった。

まだ式典は続いていたが、母が文学碑を見たいというので人の群を避けて遠回りしながら横から近づいてみる。すでに献花でいっぱいになっているがみんな銅像のほうを見ていて文学碑の前はガラガラだった。
脇の階段から乗り出して覗いていると、お花を持った女性が「よかったら献花されませんか」と声をかけてくれた。母は百合、私は向日葵を献花。写真も撮っていいというので撮らせてもらう。

 


碑のまわりではコーラスの人たちが準備をしていた。
像の前では三鷹市長の祝辞が始まっている。演劇調の抑揚あるしゃべり方をする人だ。
つづいて青森県知事の挨拶。知事はもと新潮社の編集者だった人で、園子さんに執筆依頼をしたこともあったとか。
園子さんのスピーチには父・太宰よりも母・美知子夫人への思いが強く込められているように思った。
太宰を偲ぶべき6月19日が美知子さんにとっては一年で辛い日であったこと。1999年、太宰生誕90年を機に金木での桜桃忌が生誕祭と名を改めることになって、亡き母への孝行を果たせたように思ったということ。
最後に園子さんは、美知子夫人がはじめて金木を訪れた時のエピソードを引用した。
病床の母との面会も済み、明日帰京となった日の午後。太宰がいい所に連れていってやる、少し歩くから園子はおぶっていきなさいと言って、美知子夫人を散歩に連れ出した。太宰が家族を散歩に誘うなど滅多にないことだ。美知子夫人はねんねこ半纏で園子さんをおぶっていそいそとついていった。

もう人家がとぎれて道の両側にはアカシアに似た潅木が茂り、たんぼの間をまっすぐ北に通っているこの道はどうも新道らしく思われる。農家らしいのもあるが、武蔵野の農家には必ずといってよい位、竹薮ややしき林があって厚い草葺屋根と相俟ってその背戸は陰気な、むさ苦しい印象なのに、この道に沿った農家にはその暗さが無く、まるで北海道の開拓地を歩いているような気分である。
道は爪先上がりになって右手の一段高いところに、金木小学校の二階建の校舎が見えた。校門の前を通り過ぎてやがて松林に入った。ここが今日の目的の「芦野公園」であった。
 (津島美知子『回想の太宰治』p.94)


道々で出会った情景をありありと描き出すその文章力は素人のものとは思えず、私も同じ道を辿ったはずなのに、なぜこんなふうに書けないのかと情けなくなるくらいである。この文章自体は太宰の死後に書かれたものだが、細かいところまで描写されているのは、当時の日記を参照しているからだろう(疎開中の思い出を書いた部分に、美知子夫人が日記をつけている記述が見られる)。太宰が太田静子、有明淑はじめ、女性読者の日記を元ネタにしたことはよく知られていて、晩年には山崎富栄にも日記を書かせていた形跡が見られるが、妻の日記を利用しようとは思わなかったのだろうか。

例年は文学碑の前で生誕祭を行うのだが、今年は像に向けて椅子が並べられているとのことで、そのままの位置で式典が始まる。
コーラスが響く中、遺族、関係者たちが一人一人像に献花していく。
園子さんをはじめ、その長男の淳さん、文治さんの長女田沢陽さんや、英治さんの孫である津島恭一夫妻、親戚筋の傍島家の人々など、『津軽 斜陽の家』や『津島家の人々』で見知った名前が次々に呼ばれる。一族大集合である。
その間、地元コーラスサークルの女性たちの歌声が流れ続けている。太宰を讃える歌や、『走れメロス』に題材を取った歌だ。


式典が終わると列もバラけ、われわれ一般人も銅像のそばに寄れるようになった。太宰が愛し自慢にしていたこの公園に等身大の像がたたずむ姿は、まるで在りし日の太宰が帰ってきたようである。献花をし、少し離れた所から写真を撮る。
関係者席の人々ももう席を立ったり、周囲の人たちと歓談したりしている。最前列に美しい老婦人が座っていて、一般参加者らしき女性たちと談笑していた。
「あれ陽さんじゃないかしら」
と母が言う。
母は文治さんファンなので娘の陽さんが気になるのだ。席のうしろに名前が書いてあるので背後に回ってそっと見てみる。やっぱり陽さんだ。
「一言挨拶してくれば? お父様のファンですって」
母はしばらく逡巡していたが
「やっぱり行ってくる」
陽さんがフリーになったのを見計らって声を掛けた。付き添いの女性がとり持ってくれて、握手をして帰ってきた。
太宰は長兄の文治には終生頭が上がらなかったが、兄の娘である陽さんのことはとてもかわいがっていたようだ。『津軽』にも「姪の陽子」がたびたび登場し、明るく才気煥発な姿を見せている。
私にとって、津軽に登場する人と言葉を交わすのはこれが二回目だ。三回目があるのかどうかは分からない。
たぶん私くらいが、直接太宰を知る人と接する機会を得た、ぎりぎり最後の世代なのだろうと思う。

帰りに芦野公園駅旧駅舎の喫茶店に入る。以前は「ラ・メロス」といったが、オーナーが変わったのか「駅舎」という名前になっていた。りんごジュース一杯150円。安くて美味しい。
直後にやってきた津軽鉄道に乗る。
偶然にもさっきと同じ車両で、同じお姉さんにまた会った。彼女によると、若生おにぎりは中になにも入れないのが普通なんだそうだ。「何か入っていたらヘンな気がする」とのこと。また津軽には冷やしラーメンなるものがあるとも。こちらも地元名物イモフライの話をする。
私の向かいに座っていた女性は青森市の人で、以前東京にいたこともあると言う。三鷹には来たことがないというので13日に撮ったばかりの禅林寺のお墓の写真をお見せする。同じ県内とは言っても交通の便がよくないので金木まではなかなか来られないと言っていた。
私だって太宰がいなかったらこの辺りに来ることなど一生なかっただろうと思う。結局のところ、何かのきっかけがない限り、私たちは日本国内のほとんどの土地を踏むことなく死んでいくのだ。

■弘前へ


五所川原から弘前へは普通列車で帰る。
この日の夕食は「炉辺」という郷土料理の店。ホヤ、ウニ、マグロ、ヒラメなどの海の幸とけの汁、みず、たけのこ、しどけ。なすのしそ巻を食べたかったが、なかった。
帰りのタクシーの運転手さんと雑談をする。地元の人は岩木山を「お山」と呼んで決して呼び捨てにはしないそうで、夏に行われるお祭りでは、兄弟姉妹たちも集まって一晩じゅう騒いで夜を明かすとのこと。1回で30万は出て行くんだけどね、とこともなげに言う。


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