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2009.6.21(日)

浅虫温泉〜青森


温泉たまご場に集う人々

6時半に起床。外は弱い雨が降っていた。
大広間で朝ごはんを食べる。旅館の朝食の定番である納豆や味付のりはなく、貝焼きが出た。
10:55青森空港行きのバスに乗るためには、8:55浅虫温泉発の電車に乗らなければならない。ちょっと早目にチェックインを済ませ、くじら餅を買いに行く。雨は止んでいた。


民家の庭にあったなぞのオブジェ

八幡宮へ続く階段


旅館の車で駅に送ってもらう。駅にはなぜか格安のリュックサックが売られていて、観光客たちはみなそれに注目していた。
電車はほどほどに混んでいたがなんとか座れた。大きな紙袋を横に置いて座席を二人分占領している若い女がいて気になったが、みんな特に気にしていないようだ。


リュック1,050円

■青森港

9:19青森着。
一時間半ほど空き時間があるので、荷物をロッカーに預けて青森港の回りを散策してみることに。
大通りを歩き、適当な所で左に曲がると、大きな橋と、八甲田丸が対岸に見える。立派な港だ。青森が藩政時代の城下町弘前を差し置いて県庁所在地に選ばれたのは、この港ゆえのことだろう。
海沿いには板張りの遊歩道ができていて、その上を歩きながら太宰と弟・礼治に思いを馳せる。

秋のはじめの或る月のない夜に、私たちは港の桟橋へ出て、海峽を渡ってくるいい風にはたはたと吹かれながら赤い糸について話合った。それはいつか学校の国語の教師が授業中に生徒へ語って聞かせたことであって、私たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い糸がむすばれていて、それがするすると長く伸びて一方の端がきっと或る女の子のおなじ足指にむすびつけられているのである、ふたりがどんなに離れていてもその糸は切れない、どんなに近づいても、たとい往来で逢っても、その糸はこんぐらかることがない、そうして私たちはその女の子を嫁にもらうことにきまっているのである。私はこの話をはじめて聞いたときには、かなり興奮して、うちへ帰ってからもすぐ弟に物語ってやったほどであった。私たちはその夜も、波の音や、かもめの声に耳傾けつつ、その話をした。お前のワイフは今ごろどうしてるべなあ、と弟に聞いたら、弟は桟橋のらんかんを二三度両手でゆりうごかしてから、庭あるいてる、ときまり悪げに言った。大きい庭下駄をはいて、団扇をもって、月見草を眺めている少女は、いかにも弟と似つかわしく思われた。私のを語る番であったが、私は真暗い海に眼をやったまま、赤い帯しめての、とだけ言って口を噤んだ。海峽を渡って来る連絡船が、大きい宿屋みたいにたくさんの部屋部屋へ黄色いあかりをともして、ゆらゆらと水平線から浮んで出た。
 太宰治「思い出」(新潮文庫『晩年』所収,pp.56-57)

若い修治と礼治が語らいながら歩いたのはどのあたりだったのか。埋め立てによって海岸線はずいぶん変わってしまったと昨日の講演で渡部先生は言っていた。
港でのエピソードがひときわ哀切に美しく迫るのは、「弟」のモデルである礼治さんがこの後まもなく亡くなっているからでもある。
太宰はこの弟とは「子供のときから仲がわるくて、弟が中学へ受験する折にも、私は彼の失敗を願っていたほどであった」けれど、二人とも同じ青森中学に上がり、下宿生活を共にするようになってからは、お互い心を開いて親しく語り合う仲になっていた。長兄、次兄が父親代わりのような、頼れるけれどもちょっと近寄りがたい存在だったのに対し、礼治とは「叔父糟」どうしの連帯感もあったのだろう。
礼治が敗血症のために急死するのは1929(昭和4)年1月5日のことで、太宰はこの時弘前高校の二年生だった。

■青森県観光物産館アスパム


ゆるキャラ

観光物産館は三角形の巨大な建物。物産館の前にはコンテナが並んでいて、隙間から覗くと着色前の佞武多が収納されていた。これから夏まで作業が進められるのだろう。
物産館の中は誘惑が多く、またおみやげを買ってしまった。のどが渇いたので、ここでもりんごジュースを飲む。
玄関先では鮟鱇鍋がふるまわれるとのことで行列ができていた。カラフルな飯寿司(なれ鮨の一種だろうか)やテレビで紹介されたというおいなりさんを試食する。

このころにはすっかり晴れて、暑いくらいの日差しが降りそそいでいた。駅へ向かって歩く途中、「赤い絲」というバーがあった。太宰の小説からとったのだろうか。昼間は喫茶店として営業しているようだったが、バスの時間が迫っているので写真だけとって退散。


バー「赤い絲」

■青森空港〜羽田へ

乗り場にはすでにたくさんの人が並んでいた。バスに乗り込み、空港へ。
青森空港でまたまた買い物をする母。私は理性で押えた。ここで最後のりんごジュースを飲む。
飛行機からはヒバの山が綺麗に見えた。

羽田は雨だった。しかも、けっこう激しく降っている。母とはここで別れ、それぞれ別のバスに乗った。

やや駆け足の太宰生誕100年紀行はこうして無事に幕を閉じた。梅雨の時期だったにもかかわらず、旅行中ほとんど雨に直撃されなかったのは幸いだった。


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