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東方への旅 >> ベルゲン=ベルゼン強制収容所(2)

■収容所跡地



収容所のモデル
写真正面がかつてバラックが並んでいた所


ガイドブックを買って地図をもらい外に出る。記念館から伸びる石の道を辿っていくと、収容所の見取り図を示すモデルがあった。
私が立っている場所の左側にバラック群が立ち並んでいたようだが、今は一つも残っていない。1945年当時、ベルゲン=ベルゼンにはありとあらゆる疫病がはびこっていたので、解放者たちによって残らず焼き払われたのだ。今日残っているのはごくわずかな遺構だけである。


貯水池の遺構


敷地は広いことは広いのだが、森が近くまで迫っているせいか、先日のブーヘンヴァルトに比べるとむしろ手狭な印象を受ける。解放の時点でこの収容所には五万人の収容者がおり、そのうち半数以上が女性だった。この敷地に、数万の瀕死の人間とそれ以上の数の死体が、文字通りひしめいていたのだろう。


厨房の跡地


森の中へ


直進して森の中に踏み込むと、右に厨房の跡。森の奥に向かって細い道が伸びている。ガイドブックを見ると、この森の中には「large women camp」があったそうだ。


奥へ分け入っていく



周囲に人影はまったくない。耳に聞こえるのは鳥の声と、風が樹木を揺らす音、そして自分の足が枯葉を踏みしめる音だけ。
緑が豊かなのと、天気が良いのとで、まるで森林浴をしているような気分になってくるのだが、思えばこれは死の沈黙なのだった。


木を組んだ奇妙なものがところどころにある。当時の遺構かと思ったがそうではなく、かつてのブロックの位置を示すために作られたオブジェである旨、英語で但し書きがしてあった。この木組みの上にも石がたくさん積まれていた。さらに分け入っていくと、飲料水の大きな溜め池があった。


飲料水用の溜め池


一周りして元の場所に出たので、今度は記念館から斜めに延びる道をたどる。道なりに大きな塚のようなものが並んでいる。死体投棄坑のあとだ。500人、1000人、5000人、2500人……そこに埋められた死者の、おおよその数が示されている。


ここには約2500人が埋葬されている



前方に見えるオベリスクを目指して進む。オベリスクの周囲にも、緑に覆われた塚がいくつも囲んでいる。何も知らなければよく整備された公園のようにさえ見える光景だが、そののどかさが逆に背筋を寒くさせた。ここは巨大な墓場に他ならないのだ。
オベリスクの背後には慰霊碑があり、各国語で追悼の言葉が刻まれていた。

 

少し離れた所にユダヤ人メモリアルがあった。
ハンネリ・ホースラルさんは1944年秋頃を振り返って、今までバラックも何もなかった所に、突如として大量のテントが出現したと回想している。にわかに増加した収容者を住まわせるための急ごしらえの処置だった。ユダヤ人メモリアルが建っているあたりがこれらのテントがあった場所にあたるらしい。
アンネと同じ列車でアウシュヴィッツから移送されたと見られるヤニー・ブランデスさんによると、彼女らはツェレの駅で降ろされた後、冷たい雨の中をベルゲン=ベルゼンまで歩かされ(この旅行記のひとつ前のページを参照していただきたい。タクシーで30分以上かかった道のりである)、建てられたばかりのテントのひとつに収容された。アンネとマルゴーも同様だった。しかしその晩、ひどい嵐が襲ってテントは倒れてしまい、フランク姉妹もブランデスさんも石造りのバラックに移されたという。

ユダヤ人メモリアルの周囲には個人の墓碑がぽつぽつと並んでいる。その中にアンネとマルゴーの墓碑もあった。彼女らの従兄弟バディー・エリアス氏が建てたものだが、これはあくまで象徴的な記念碑であり、実際の埋葬地を示しているわけではない。



アンネとマルゴーの性格な死亡日は分からないが、おそらく1945年3月頃と推測されている。死因は当時この地で猛威をふるっていた発疹チフスだった。
「どうかこれを終わらせてほしい。たとえつらい終わりかたでもいい。」
1944年5月26日の日記(『アンネの日記』p.531)にそう書いたアンネだったが、これほどまでに悲惨な最期が待ち受けていると、はたして想像しただろうか。


彼女らの顔にはぼつぼつと穴が開き、骨の上に皮膚があるだけでした。彼女らは絶えず開いたり閉じたりするドアの傍ら、ベッドの下段に――バラックの中でも最悪な場所を占めていたので、ひどく凍えていました。「ドアをしめて、ドアをしめて」と彼女らが叫んでいるのが継続的に聞こえました。そしてこの叫び声は、毎日少しずつ弱っていきました。
 『アンネ・フランク最後の七ヶ月』より、ラーヒェル・ファン・アメロンヘンの回想(p.132)




「最期の日」を迎える少し前、アンネが毛布にくるまって私の前に立ちました。彼女はもう涙を流しませんでした。ああ、涙なんて私たちはとっくに失っていました。そして彼女は、衣服についている小動物たちが非常に恐ろしかったので、衣服はみんな捨ててしまったと言いました。それは厳しい冬のことで、彼女は残った最後の一枚の毛布にくるまっていました。
 …(略)…
まずマルゴット(管理人註:マルゴー)がベッドから石の床の上に落ちました。彼女にはもう立ち上がる力はありませんでした。アンネは一日後に死にました。私たちは時間の概念を失っていました。それは二日後だったのかもしれません。でも死の三日前に、アンネが発疹チフスによるひどい不安と幻想の中で、すべての衣服をひきずりおろしたことは覚えています。すべては解放目前のことでした。
 前掲書より、ヤニー・ブランデスの回想(p.99-100)



日記の成功によりアンネ・フランクは世界でもっとも有名なユダヤ人になったが、彼女の肉体は今も無名のまま、あの塚のどれかに横たわっている。
「隠れ家」のメンバーの中でただ一人生還したオットー・フランクは、妻の死んだアウシュビッツ=ビルケナウも、また娘たちの死んだこのベルゲン=ベルゼンも、訪れることはなかったという。
「わたしはアウシュヴィッツまたはベルゼンを訪れることもしていません。そこには何もありませんから」(『アンネ.フランクの生涯』p.455)
オットーのこの言葉を初めて読んだとき、正直に言って不可解だと感じた。私がオットーの立場だったなら、なんとかして家族の遺骨を特定し引き取りたい。それが無理なら、せめて彼女らの終焉の地をこの目で見たいと思う。
でもそれはもしかしたら国民性の違いかもしれない。他国の人から見ると、日本人は遺体の収容に非常にこだわる民族だと聞いたことがある。

マルゴーとアンネの墓碑は他のものに比べて目立って花が多かった。
書くことを愛したアンネのために、ペンがたくさん捧げられている。天道虫の模様がついた髪留めを置いた人は、アンネが日記と同じくらい髪を大切にしていたことを知っていたのだろうか。
折鶴を持ってきた自分をなんだかひどく芸がないように思った。

少し離れたところにはアイエン公ジャン・ド・ノワイユと刻まれた墓碑が立っていた。帰国後に調べてみたら、8代ノワイユ公の一人息子とのこと。つまり閨秀詩人アンナ・ド・ノワイユの義理の甥にあたる人物。対独レジスタンスに身を投じたことからゲシュタポに逮捕され、子息のアドリアン・モーリスと共にベルゲン=ベルゼンで亡くなったそうだ。

門を出て、記念館の人に電話がないか聞くとないと言うので、Udoさんの電話番号を渡して変わりに電話をかけてもらう。この時点で12:30。収容所の中に入ってから、きっかり二時間が経過していた。
ベンチに腰かけて待っていると、20分ほどしてタクシーがエントランスに横付けされた。小走りにタクシーに向かうと、運転席から降りてきたUdoさんが両手を広げて迎えてくれた。なんだかひどく安心した。

帰る道すがら、Udoさんはこんな話をしてくれた。
ある時彼はツェレ駅から80歳くらいの女性を乗せたという。
「ちょうど今日の君と同じように、ベルゲン=ベルゼンまで行ってくれってことだった。でも彼女、妙なことを言うんだ。自分の前では絶対にドイツ語は使わないで欲しいと」
「その人はもしや」
「そう。ベルゲン=ベルゼンの生き残りだったんだ」
老婦人は家族全員をホロコーストで失った。彼女一人だけが生き延びて、今はイスラエルで暮らしている。ドイツ人のことを嫌っているわけではない。でも、ドイツ語だけはやめてほしい。
彼女の心境を想像することはできる。だが、本当の意味で理解することはたぶん私には不可能なのだろう。私はそれを体験していないからだ。
「でもね、僕の父や祖父は何も知らなかったと言うよ。そんなひどいことが行われていたなんて、本当に知らなかったって」

ドイツ人がホロコーストについて知っていたかどうかはよく議論の対象になる。プリーモ・レーヴィは
「情報を得る可能性がいくつもあったのに、それでも大多数のドイツ人は、知らなかった、それは知りたくなかったから、無知のままでいたいと望んだからだ」
と書き、
「ナチズムへの同意に対する無罪証明に、無知を用いたのだ。目、耳、口を閉じて、目の前で何が起ころうと知ったことではない、だから自分は共犯ではない、という幻想をつくりあげたのだ」
「この考え抜かれた意図的な怠慢こそ犯罪行為だ」

と一般ドイツ人を厳しく糾弾している。(プリーモ・レーヴィ『アウシュヴィッツは終わらない』p.226)
自身アウシュヴィッツの収容者であったレーヴィの指摘はもっともだし、正しすぎるほど正しい。しかし私は、ドイツ人ではないがユダヤ人でもない私は、大上段に振りかぶってドイツ人を責める気にはなれなかった。
アンネの日記やホロコースト関係の本を読んで「差別はいけないと思います」「アンネのような人がいたら助けてあげようと思います」と書くだけなら小学生の感想文だ。何かが起こっている、と感じたとしても、それを指摘したり、ましてや止めるために行動するのは口で言うほど簡単なことではない。
迫害されているのが友人だったなら、命を賭けて救う努力をするという人は少なくないかもしれない。では、たとえば迫害の対象が、普段から自分が快く思っていない層であったとしたらどうだろう。彼らを擁護することで自分の生命に危険が降りかかるとして、それでも勇気を振り絞ることができるか、そこまで考えなければならないと思う。人間は楽なほうに流れるものだ。公正でありたい、そうあらねばならないという思いにいついかなる時も誠実でいられるか。それが非常に困難だからこそ、オスカー・シンドラーやコリー・テン・ボームや杉原千畝のような人々の行為が燦然と輝くのではないか。

タクシーの行く手に大きな建物群が見えてきた。
「あれがNATOの下っぱの兵士たちの宿舎だ」
金曜の夜ともなるとドイツ人の女の子たちと兵隊がビールやウイスキーを飲んで騒ぎ、翌朝にはそこらじゅうに女の子が転がっている。ひどい光景だよとUdoさんは言った。
「知ってるかい? NATOのナンバー2はドイツなんだよ」
私は『エロイカより愛をこめて』のエーベルバッハ少佐を思い浮かべながらうなずいた。
「NATOはドイツがいなければ立ち行かない。それにドイツは今やフランスと並んでEUの両輪だ。英国? 英国はヨーロッパじゃないよ、アメリカとの結びつきの方が強いからね。英国はアメリカだよ」
(私は「それなら日本もアメリカだな」と思ったが黙っていた)
「NATOもEUもドイツがいなければ立ち行かない。でも、」
彼は続けて言った。
「でも、アメリカや英国やフランスやロシアは、今でもドイツをcriminalだと思っている」
Udoさんは軽い調子で言ったのだが、私は胸を衝かれた。だから言った。
「それは日本も同じですよ。アメリカは日本のことを更生した不良少年みたいに思ってるみたいだけど、でも中国や韓国は違うでしょうね」
「ドイツと日本の立場はよく似ている。どちらも技術大国だしね。日本人に好感を持ってるドイツ人は多いよ」
彼は65歳だが、まだまだ元気だし、仕事を続けるつもりだと言う。
「この仕事は楽しいよ。車を運転するのは好きだし、何より色々な人との出会いがあるからね。たとえば君のような」

帰りは40.40ユーロだったが彼は38ユーロしか受け取ろうとしなかった。それではとお釣りの2ユーロをチップとして渡そうとしたが、それすらも固辞された。
私が再びベルゲン=ベルゼンを訪れることはないような気がする。そして、Udoさんとは間違いなく二度と会えないだろう。一人旅をしていて寂しいと思うことはないけれど、二度と会えない人や町のことを思うといいようのない悲しみに襲われる。



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