2009.11.13(金)
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アンネの家はなんなく見つかった。外壁はクリーム色に塗られていて、古さを感じさせない小奇麗な建物である。
フランク一家が借りていたのはこの家の右側の部分。左側の家の一階には家主のケーニッツァー一家が、その上階にはシュタープ一家が住んでいた。アムステルダム・メルヴェデプレインのアパート同様、今はまったく関係ない人たちが暮らしているので、中を見ることはできないが、家の前には真新しい写真入りの案内板ができていた。
フランク家は古くからフランクフルトに定住したユダヤ系ドイツ人の家系で、アンネの祖父のミヒャエル・フランクは銀行家だった。その息子であるオットー・フランクは、アンネの言葉を借りるなら「お金持ちのお坊ちゃん」で、「大きなお屋敷に住んで、毎週のようにパーティーやら舞踏会やら、きれいな令嬢たちとの交際、音楽会、夕食会等々、それはそれは楽しく暮らしたそうです」(『アンネの日記』1944.5.8)。オットーの妻となったエーディト・ホーレンダーもアーヘンの裕福な家庭の子女だった。
フランク夫妻ははじめベートーヴェン広場にあるオットーの実家で暮らしていたのだが、長女のマルゴーが産まれた頃から自分たち家族だけの住まいが欲しいと思うようになったという。エーディトは「小さな庭か、すくなくとも広いベランダが欲しいという、現代的にして先見の明ある希望」(メリッサ・ミュラー『アンネの伝記』p.45)を持っていた。
こうしてマルバッハ通りの家が選び出され、1927年の夏に引っ越しが行われる。アンネ・フランクがこの家の歴史に登場するのは二年後の1929年。母や姉と一緒に撮った写真がたくさん残っている。オットー・フランクはカメラマニアで、愛機のライカで娘たちの成長を記録していた。
マルバッハ通りの家の中庭で 母エーディトと |
当時この地区はいわゆる新興住宅街だった。住人は公務員や教師、サラリーマンといった人々で、オットーのような実業家は異色の存在だったが、子供たちが宗教や社会的階層にとらわれずのびのび育つことを期待していたフランク夫妻にはかえって好都合だった。そして事実、近隣住民との関係は良好だったようだ。
1931年3月、次女のアンネが2歳になる直前に、フランク一家はマルバッハ通りから徒歩10分ほどのガングホーファー通り24番地への引越しを決める。マルバッハ通りの家の貸主だったケーニッツァーが親ナチ的傾向を強めたことがその理由の一つだったとも言われている。
私は来た道を戻ってガングホーファー通りを目指した。
まずトラムの駅のあるエッシャースハイマー・ラント通りに戻り、トラムの進行方向に向かってさらに直進する。通り沿いには食料品店やドラッグストア、中華料理店が並んでいる。招き猫を飾っている店が二軒あった。
ガングホーファー通りの表示に従って左折すると、閑静な住宅街が広がる。しゃれた門のある家、薔薇の咲き乱れる家、そしてどの家も立派な庭を備えている。高級住宅街という雰囲気がある。1931年当時も、このあたりは医師や弁護士など富裕な人々の住む地区だったそうだ。
16,18,20…と端からひとつひとつ番地を確認して、24番地の家にたどり着いた。
ここだ。見上げると、外壁にひかえめな案内板がついていた。
一家は1933年にオランダへ出国するまでここに住んだ。この家に比べると、メルヴェデプレインのアパートはかなり質素である。事実上の亡命だったから贅沢は言っていられなかったのだろうが、幼かった子供たちはともかく、お嬢さん育ちの母エーディトには辛かったことだろうと思う。
帰りはフリッツ=タルノー・シュトラーゼの駅からUバーンに乗った。この駅は戦前からあったのだろうか。エーディト・フランクが幼い娘たちをつれてフランクフルト市中心部に行くときには、この電車を利用したのだろうか。
ハウプトヴァッヘにて |
ホテルをチェックアウトして中央駅に向かった。
9:21のICEに乗れればと思っていたのだが、間に合わなくなってしまったのでその次の10:13のICEに変更。ヴァイマルのクラナッハの祭壇画は諦めざるをえないかもしれない。残念だが、私の今回の旅の目的は何? と問い直す。アンネ・フランクの家を見られたのだから、まずまずの出だしではないか。
窓口でジャーマンレイルパスをバリデーション。窓口のおじさんが立派なカイゼル髭を蓄えていて思わず見とれてしまう。
さあこれで今日一日、ICEも鈍行列車も乗り放題だ。
ICEは10分ほど遅れて出発した。フルダでの乗り換えに間に合わないかと思ったが、乗り継ぎの電車も同じく遅れていたので無事乗ることができた。
車窓からは馬や牛が放牧されているのが見える。
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