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2006.6.18(日)

三日め

起き抜けに窓から駐車場を見下ろすと、鹿が二頭、庭の方に歩いていくのが見えた。
きょうの朝食は茶粥。美味しいが腹持ちは悪そうだ。
ホテルをチェックアウトし、帯解の円照寺へ向かう。

■円照寺

円照寺へは近鉄奈良駅前4番バス乗り場から、山村町行きのバスに乗る。
バス停の前で観光客っぽくガイドブックを広げていると、おじいさんが近寄ってきて「どこへ行かれるんですか?」と声をかけてくれた。円照寺と答えると、「ああ、あそこはいいお寺ですよ」
バスがやってきたので乗り込む。乗客は私たちを入れて4人ほど。
奈良公園の中をつっきって若草山を左に見ながら奈良教育大方面に進み、やがて住宅街へ入る。


円照寺バス停


円照寺で下車。
バス停のすぐそばに山門につづく道があり、反対側には水田がひろびろと広がる。

『豊饒の海』第一部『春の雪』で、王殿下と婚約中の身でありながら松枝清顕の子を宿した綾倉聡子は、堕胎手術の末、大伯母が門跡を務める月修寺に入って剃髪する。
清顕は聡子を追って奈良へやってくる。せめて一目でもと尼寺に日参するがそのたび門前払いを食らい、一度の面会も叶わないまま、やがて清顕は病を得てふもとの宿で床についた。
電報を受けて東京から駈け付けた本多繁邦は、病床の親友にかわって円照寺の門を叩く。応対に出た門跡は、聡子の出家の意志は固いこと、この世では二度と清顕に会わない決心であることを伝える。
尼寺の座敷に門跡と相対して沈黙した時、どこか遠からぬ一隅から、ほとんど聞き取れないくらいかすかな嗚咽の声を聞いたように本多は思った。
帰京の二日後、松枝清顕は20歳で死ぬ。

月修寺がふたたび作中に登場するのは、『春の雪』から60年後、第四部『天人五衰』の結末部。
第一部で20歳の青年だった本多も、いまや81歳の老人となっている。
すでに彼は清顕の転生の姿である飯沼勲、ジン・ジャン姫を見いだしていた。さらに老境にさしかかって、三人目の転生者と確信する安永透に出会い、彼を養子として迎え入れる。
しかし「20歳での死」は透には訪れなかった。透は21歳の誕生日に自殺を図って死にきれず、盲目の半廃人となって生き存らえる。
透は贋の転生者だったのだろうか。
死期を悟った本多が目指したのはあの月修寺であった。
聡子に会って自分の目撃した転生の物語を語るために、本多は、山門へ続く坂道――60年前、清顕の使いとして辿ったその坂道を、炎天下のなか杖にすがって歩いていく。

バス停横の門からはゆるやかな坂道が続く。しばらくは石畳がしかれているが、すぐに細かい砂利道に変わった。

沼があった。沼辺の大きな栗の強い緑のかげに休んだのであるが、風ひとつなくて、水すましの描く青黄いろい沼の一角に、枯れた松が横倒しになって、橋のように懸っているのを見た。その朽木のあたりだけ、かすかな漣がこまやかに光っている。その漣が、映った空の鈍い青をかきみだしている。葉末まで悉く赤く枯れた横倒れの松は、枝が沼底に刺って支えているのか、幹は水に涵っていず、万目の緑のなかに、全身赤錆いろに変りながら、立っていたころの姿をそのままにとどめて横たわっている。疑いようもなく松でありつづけて。
三島由紀夫『天人五衰』(新潮文庫) pp.299-330


たしかに沼があった。どんよりと緑色に濁って、牛蛙が地の底から響くような声で鳴いている。「危険およぐな」の看板が立っているが、頼まれても入りたくない。
前日の雨を吸って湿った砂利を踏みしめて歩く。
さらに行くと、両側から木が張り出した、鬱蒼たる山道に入った。空気が変わったのを感じる。
頭上に生い茂った葉のせいで薄暗い。時折鶯が鳴く。靄が立ち籠め、体感温度が2,3度も下がったような涼しさである。

檜林がやがて杉林に領域を譲るあたりに、一本孤立した合歓があった。杉の剛い葉の間にまぎれ込んだ、午睡の夢のようにあえかな、その柔らかい葉叢が、タイの思い出を本多に運んでくると思う間に、そこからも一羽の蝶が翔って、行手へ導いた。
道の勾配は急になったが、もう山門が近いという思いと、杉木立が深くなって涼風が立って来たのとで、本多の歩みはよほど楽になった。道の上のところどころに帯をなして見えるのは、前には木陰だったのが、今度は日向であった。
 同上 pp.330-331

道の端の歌碑にはこんな歌が刻んである。

あしひきの山に行きけむ山人の心も知らず山人や誰れ

その杉木立の暗みの中を、白い蝶がよろめき飛んだ。点滴のように落ちた日ざしのために燦と光る羊歯の上を、奥の黒門のほうへ、低くよろばい飛んだ。なぜかここの蝶は皆低く飛ぶと本多は思った。
 同上 p.331

車寄せの陸舟松が奥に見透かされる山門に立ったとき、現実に自分の身がここにあることを本多は殆ど信じかねた。山門をくぐるのさえ惜しく、今はふしぎに疲れも癒えた心地で、小さな耳門を左右に侍らせ十六弁の菊の紋瓦を屋根に連ねた山門の柱に佇んだ。
左の門柱には、月修寺門跡と誌した小体な女らしい表札があり、右の門柱には、
「天下泰平
  奉転読大般若経全巻所収
 皇基鞏固」
と刷った札が字もおぼろに貼られていた。
 同上 p.331

山門の入り口から覗くと、白砂の上に菱形の飛び石が整然と並んでいた。
境内は掃き清められ、塵ひとつない。清浄そのものといったたたずまいで、とても「月修寺の門前で愛を叫ぶ清顕ごっこ」など出来る雰囲気ではない。(←やるつもりだったのか?)
土塀には五本線が引かれて格式の高さをうかがわせ、瓦や欄間など至るところに菊の御紋が見られる。

円照寺では拝観は受け付けていない。
インターフォンごしに御朱印をお願いする。奥からは犬の鳴き声が聞こえてきた。察するに大きな犬と小さな犬が二匹。女所帯の用心のためか。
インターフォンのある門の反対側には本堂の萱葺き屋根が見えた。
出てこられた僧衣の女性に御朱印帳を手渡し、上がり框に腰かけて待つ。目の前の障子紙にも菊の御紋が透かしで入っている。

本多老人はこの玄関から中に通され、亡き親友の恋人、聡子と実に60年ぶりに対面した。
そこで彼があじわった恐るべき虚無感については実際に本を読んでいただくとして……

円照寺の開祖は後水尾天皇の第一皇女である。文智女王、幼名を梅宮といった。
生母は四辻公遠女、通称およつ御寮人と呼ばれた典侍であったが、徳川秀忠のむすめ和子の入内が近づいていたため、江戸の目を憚って天皇のそばから遠ざけられた。そのため文智女王は皇女でありながら内親王宣下を受けることがなかったという。
文智女王は長じて鷹司教平に嫁ぐが、病弱を理由に数年後に離縁している。
Wikipediaの文智女王の項目では、この短い結婚生活で、のちに徳川綱吉の正室となる信子を儲けたとある。しかし信子の誕生は1651年、文智女王はその約十年前には得度し円照寺門跡となっているので、彼女が信子の生母である可能性は薄いのではないかと思う。
開祖以降円照寺には代々皇族、公卿の姫が門跡として入寺し、山村御殿と言われた。
1995年に亡くなった第十世門跡山本静山尼は崇仁親王(三笠宮)の双子の妹と噂された人である。

これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るような蝉の声がここを領している。
そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。……
 同上 p.342

全四部作の締めくくりの舞台として月修寺の寂寞たる庭を選んだ三島は、この章を書き上げるや、市ケ谷駐屯地へ赴いたのだった。

御朱印を受け取り、帰りがけにふと門のわきを見ると、「朝日新聞」のロゴが入った新聞受けがあった。門跡寺院なのに朝日を購読してるなんて意外…。

行定勲監督の映画『春の雪』(2005)では、ここ円照寺でもロケが行われ、スクリーンの中に庭や客間を見ることができる。
清顕が血を吐いて倒れる山門のシーンには、この寺の山門と、滋賀県にある東光寺の石段を組み合わせて使用されたようだ。




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