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2009.6.20(土)

五所川原



電車の窓から岩木山を望む

昨日と同じリゾートしらかみで五所川原へ。今日は虫送りがあるらしく、駅前に龍みたいな「虫」が置かれていた。これ、燃やすのかな。


五所川原駅

荷物を駅のコインロッカーに預け、タクシーに乗って五所川原市ふるさと交流圏民センター「オルテンシア」に向かう。ここで太宰生誕百年記念フォーラムが行われるのだ。会場は地図では駅から近そうに書いてあったが、歩いていくのは無理だろうと思われる距離だった。
到着すると、トップバッターの朴榮俊氏(韓国中央大學校)の発表はすでに終わっていて、清原慶子三鷹市長の話の最中だった。スピーチが漏れつたわってくるのをロビーで聞く。三鷹での桜桃忌は上からの押しつけではなく太宰ファンが中心になって自発的に行われているということ、三鷹市長が桜桃忌当日にこうして五所川原での集まりに出席しているのが何よりの証拠である、云々と言っていて、その通りだと思う。
三鷹市長のお話が終わったところでホールに入り、席に着く。次は中央大学渡部芳紀教授の写真を使用したレクチャー。軽快な喋りが面白い。
休憩を挟んで、基調講演である長部日出雄の講演が始まった。テーマは「太宰文学と母なる津軽」。いわく、太宰には五人の母があった。一人は実母タ子、二人目は叔母のきゑ、三人目は子守のタケ、四人目は妻美知子、そして五人目が津軽の風土であると、津軽弁を交えて語った(一部聞き取れない部分も…)。私は太宰の評伝の中では長部さんの『辻音楽師の歌』と『桜桃とキリスト』が一番好きなので、実際にお話を聞けてうれしかった。


津島園子さん挨拶


最後に園子さんが登場。
太宰をテーマにした講演会は、自分も居心地が悪いし、講演者もやりづらいだろうから、滅多に出席しない。でも今回は、渡部先生と長部先生が講演されると聞いて出席を決めた。というのは、御二人の先生方は太宰作品の中でも中期の明るい作品を高く評価しているからだと。
中期と言えば太宰が美知子夫人という伴侶を得て三鷹に居を構え、すぐれた作品を次々と生み出していた頃。太宰文学の円熟期だ。駈込み訴え、乞食学生、右大臣実朝……暗く破滅的なイメージばかりが強調されがちな太宰が残した明るい作品郡だ。
美知子夫人は東京高等女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)卒という当時の女性としては最高の学歴を有し、『回想の太宰治』の理知的な文章を見ても分かるとおり非常に聡明な人だった。太宰の紡ぎ出す言葉を口述筆記し、そしてその作品を冷徹に評価できるだけの知性を持ち合わせていた。そのような人との結婚生活から生まれたのが上記のような安定した作品であった。
中期の作品を評価するということは、すなわちその時期の太宰を支えた美知子夫人の功績を称えることでもある。
太宰の死後、美知子夫人は5歳の長女園子さんを頭にダウン症の長男と乳飲み子の次女を抱え、世間の非難に晒されながら、黙々と夫の遺稿を整理し続けた。太宰がりんご箱に貼っていた反古までも剥がして大事に保存し、それらはいま太宰研究に欠かせぬ貴重な資料となっている。母の苦労を最も身近で見てきた園子さんにとって、長部・渡部両氏からの評価は本当にうれしかったのだろう。
話の中で園子さんが「私は津島家の冠婚葬祭担当で…」と言っていて会場の笑いを誘っていたが、津島家本家の事実上の跡継ぎとして「家」の問題を一手に引き受ける園子さんと、そういうことにはほぼノータッチで文学の道を突き進む妹・里子さん(津島佑子)の構図は、まるでかつての文治と修治を再現しているようだと興味深く思った。

■立佞武多の館

公式サイト

ここにも虫が置かれていた。太宰の「思い出」の中で、眠れずにいるとき、虫送りの声を遠くに聴いて、起きているのは自分だけではないのだと心強く感じた、という話があるのを思い出す。
外から見てずいぶん高い建物だと思ったがそれも道理で、中は4Fまでの吹き抜けになっていて、実際の立佞武多が展示されている。見上げると首が痛くなるような大きさだ。4Fに上がってやっと佞武多の顔と対面できる。

2F展示室では太宰の特別展を開催中。
文治に宛てた太宰の手紙がある。
自分がずいぶん成長したと思って、ふと前を見ると、お兄さんは百歩先を悠々と歩いている。英治兄は五十歩先を、圭治兄は三十歩先を歩いている。
「兄には、かなひません」
おもねるようにそう書いているのが微笑を誘う。
入り口に展示された写真を見て、女性のグループが「キャプションが間違っている」と騒いでいた。「礼治とあるが、これは太宰ではないか」と。でも、あとで確認してみたら展示の方が正しかった。
1Fの売店でお土産を買い、喫茶店で赤いりんごジュースを飲む。五所川原で開発された、花も葉っぱも赤いという新種のりんご。酸味が強い。
となりにスーパーがあったので入ってみた。鰺ケ沢など近場で捕れた海の幸が驚くほど安い。関東のスーパーではまずお目にかかれない国産の蛸が無造作に売られていた。

昼を食べる前に青森行きのバスの時間を聞いておこうと思い、駅に戻ることに。
駅前までずっとコモヒが続いていた記憶があったので、コモヒを辿って歩いていたのだが、なぜかどんどん人通りが少なくなって行く。通りすがりの人をつかまえて聞いてみると、駅は反対方向とのこと。
さっきは急いでいたので気づかなかったが、駅前からはコモヒが一掃されていた。六年前はひたすら薄暗かった記憶があるのだけれど、今は明るいかわりになんだかガランとしている。高い建物がないせいもあってなんだかうら淋しい。再開発の途中なのだろうか。
青森行きのバスは一時間に二本ほどあるようなので、お昼を食べに町へ出る。其の前に、前回写真を撮りそこなった「ハイカラ町」のきゑさんの家を探す。前回の宿泊先であるルートインを基点にして記憶を便りに歩いていくと、津島歯科を見つけた。ここを記念館にする計画もあるそうだ。

津島歯科の向かいあたりには、「はいからな街」と刻まれた石柱が立っていた。
大通りに戻って、角の珈琲詩人でお昼を食べた。私はグラタン、母はカレー。

15:30のバスで青森へ。進行方向右側に、市の指定文化財である巨大なかやぶき屋根の民家が見えた。
五所川原と青森の市境にはラブホテルが多い。青森なのに「グラバー邸」というホテルがあった。母は前の席でうつらうつらしていて、私はipodで音楽を聴いていた。


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