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弘前

青森空港からはバスに乗ってまっすぐ弘前へ。車窓からの眺めは特に個性もない地方都市郊外の景色。この景色を撮った写真を見せられて、故郷の通りの一つだと言われたとしても、たやすく信じるだろう。普通の町の風景に地方色などというものは望めないのだと、大村を歩いていた時と同じことを考える。
道端に咲いているのはタンポポ、マーガレット、ハルジョオンなどの春の花。東京で満開だった紫陽花はまだ固いつぼみだ。曇った空に岩木山の裳裾の部分だけがかろうじて見える。雨が降っていないのは幸いだった。
六年前に工事中だった弘前駅はすっかり完成して、大きなビルになっていた。今夜の宿泊先であるルートイン弘前駅前は駅の真向かい。フロントに荷物を預け市内観光へ。



途中見かけたクラシカルな質屋


手始めに、太宰が旧制高校時代に下宿していた藤田家住宅に行ってみることにした。弘前駅の観光案内所で聞いたとおり、途中まで100円バスで行って、最寄りの(といってもけっこう離れているのだが)「大町二丁目」停留所で降りて歩くつもりだったのだが、バスの中でおしゃべりに夢中になっていて降り忘れる。結局かなりの距離を歩くことに。

観光資源などなにもなさそうな道をひたすら歩く。
旧弘前偕行社と書かれた素敵な建物があった。気にはなるが、時間がないので通りすぎる。しかし歩けど歩けど目的地にたどりつかない。
立ち止まってもう一度よく地図を見ると、旧藤田家住宅はさっき前を通りすぎた旧弘前偕行社よりも手前にあるはずである。知らない間に通り過ぎていたらしい。
おそらく大通りから少しひっこんだ所にあるんだろうと当たりをつけ、来た道を逆戻りする。旧弘前偕行社の手前の細い道を曲がると、あったあった。庭の奥にやや隠れるようにして、古い日本家屋が立っていた。
しかし曲がり角に案内板のひとつもないのはどうしたことかと思う。


■太宰治まなびの家(旧藤田家住宅)

   


中に入ると係の人がひっそりと座っていた。靴を脱いでまずは1階から見学する。


当時の太宰
藤田本太郎氏撮影

1927(昭和2)年4月から1930(昭和5)年3月まで、のちの太宰こと津島修治は親戚筋にあたるこの家に下宿し、ここから旧制弘前高校に通った。
弘前高校の生徒には入寮が義務づけられていたのだが、修治の場合は「体が弱い」ことを理由にしての特別待遇だった。

この頃の太宰は実家から離れて羽を伸ばしたのか、義太夫にはまったり、左翼思想にかぶれたり、同人誌「細胞文芸」を発刊したりと、精力的に活動している。芥川龍之介の自殺に衝撃を受けたのも、花柳界に遊んで後に妻となる小山初代と出会ったのもこの頃だった。
貼り出された太宰の年譜とこの家の長男藤田本太郎さんの日記を読むと、太宰が湯水のように金を使っていたこと、成績が見る見る落ちて言ったことが分かる。

太宰たちが写真をとった縁側や床の間がそのまま残っている。
太宰と同じ位置に座って記念写真を撮った。


二階に上がると、すぐの部屋が本太郎さんの部屋で、その奥が太宰の住んだ部屋だ。太宰の部屋にはロープが張られていて入ることができない。窓側には、あれはなんと呼ばれるものなのだろうか、古い日本家屋の二階によくある小さいベランダのようなスペースがある。二つの部屋を区切る欄間が蝙蝠の柄でおしゃれであった。


■日本聖公会弘前昇天教会教会堂

土手町の通りを歩いて城方面に向かう。
この付近はおそらく古くからの商店街で、華やさはないが小奇麗で雰囲気がいい。スピーカーからなぜかウルフルズの「ガッツだぜ」が大音量で流れている。通り沿い紀伊國屋書店ではショーウインドウを使って太宰関連の書籍を大々的に展示していた。
信号待ちをしていたら道の向こうに鐘楼を持つ教会のような建物が見えた。近寄ってみると、聖公会の教会であった。「日本聖公会弘前昇天教会教会堂」とある。やや無骨な黒っぽい外壁が英国風である。

 


木の扉を開けると板張りのナルテクスになっていて、ストーブを囲んで信者さんたちが集まるスペースが設けられている。突き当たりの襖の向こうが礼拝堂。玄関には靴があったが、中は無人でしんとしていた。
入り口右手には古いオルガンが置かれていた、120年前につくられ、アメリカ人宣教師とともに海を渡ってきたそうで、今も現役で使われているとのこと。

■万茶ン

教会の裏手から弘南鉄道駅の前を通ってしばらく歩き、右折すると、飲み屋などの飲食店が建ち並ぶ一画に出る。やや大通り寄りの位置にあるのが「万茶ン」、青年時代の太宰がよく訪れたという喫茶店だ。

平日の昼間なので、先客はカウンターに一人だけ。
当時のコーヒーを再現した太宰ブレンドというのがあって、二人とももちろんそれを注文する。深煎りで好みの味であった。
食べ物は私は焼き林檎、母はアップルパイを。結局これが昼ご飯がわりになった。
マスターは私たちには標準語、カウンターに座る一人客には津軽弁と、バイリンガルのごとく巧みに言葉を使い分ける。
壁に貼られた紙には、今年で創業80年と書いてあった。太宰が通っていたのは開店間もない頃だったのかと思う。
旧制高校生といえば、今の大学生くらいの年頃。開店したばかりのおしゃれな喫茶店で気取ってコーヒーを飲んでみたり、まだ実家に養われている身のくせに、いっぱしの大人になった気分で年長者を批判してみたり、そういうことがとても楽しかったのではないかな。誰しもが多かれ少なかれそういう時代を経験しているものだと思う。

■弘前城

万茶ンを出て歩いていく途中、母の持っていた「旅の手帖」に出ていた「川越の黄金焼き」があったので買ってみる。見た目は今川焼きのようだが、食感はもっともちもちしていて、中に白餡が入っている。値段も一個50円と安い。
このあたりはやたらと喫茶店が多く、数十メートルごとにあるんじゃないかと思うくらい目についた。今風のカフェではなく、昔乍らのいわゆる純喫茶。こういう店はある程度文化的な町じゃないと生き残っていけないのではないかと思い、城下町弘前の底力を見る気がする。
漆器のお店があったので冷やかしてみる。津軽塗りはあまり好きではないが、現代的な芝文様の重箱は良いと思った。おいそれと買えるような値段ではなかったけれど。他にも津軽の食品や特産品を少し扱っている。
すさまじくボロい美容院を横目で見つつ、壮麗な青森銀行の写真をとった。これも堀江佐吉の作品。



青森銀行


日は傾きかけていたがお城へ行く。追手門から桜の木の間を歩いて、太鼓橋の前まで。時間がないのでそれ以上は進まず、写真だけ撮って来た道を戻る。ここでしか食べられない黒いおでんがあるという話で母は少し残念そうだ。
ふと木の上を眺めると、カラスがたくさんとまっていた。
日が傾いたせいか気温が下がってきて、ひどく寒く感じる。半袖の上にロングカーディガンを着ていたが、不十分であった。道行く人の中にはスプリングコートを着ている人もある。


6年前とほぼ同じアングルで


追手門


■旧弘前図書館


図書館は相変わらずだが、隣の外人教師館にはカフェができていた。中には入らず。図書館の庭にはミニチュアの洋風建築群があった。ほとんどが堀江佐吉とその弟子による建築物だ。今はもう取り壊されてしまった建物も多いようだ。文学館では太宰展を開催中だが時間が遅いのですでに閉まっている。

■大阪屋


「各地の銘菓」にめっぽう弱い母と私は、旅に出るたびに当地の老舗菓子店に立ち寄ることを無上の楽しみとしている。大阪屋は津軽藩の御用菓子司をつとめた店で、本物の老舗である。「大阪屋」の屋号はもともと豊臣家に仕えていた初代が、大阪夏の陣後に津軽藩主津軽信枚に招かれて弘前にやってきたことに由来するという。
老舗といってもお高くとまったところがなく、店員さんも非常にフレンドリーで、次から次へと試食品を出してくれる。殿様に献上されたという「竹流し」を二人で五箱購入。ホテルの部屋で食べるために生菓子も買った。
ちなみにここも佐吉の建てた建物だというが、和風建築であるせいかだいぶ印象が違う。雪国には珍しい瓦葺である。

追手門の前まで戻って100円バスでホテルへ戻る。
チェックインを済ませ、部屋に入るとものすごく煙草臭かった。母が煙草を吸うので喫煙ルームにしたのだが、非喫煙者にはこれはきつい。
一休みしてから津軽三味線のライブハウス「山唄」へ向かう。その向かいあたりに建つ「じょっぱる」というショッピングセンターに入ってみるが、テナントがほとんど入ってなくて寂れていた。ヴィレッジバンガードに見覚えがあった。ここ、たぶん六年前にも来たことがある。ヴィレバンではない書店で「あおもり草子」という雑誌の「太宰治 奥津軽紀行」特集を買った。

さて6年ぶりの山唄。前に来た時は一人で飲んだ経験がなく、緊張してしまって楽しめなかった。しかしこの6年の間に私は一人でバーに行けるまでに成長した。彼は昔の彼ならず、である(といっても今回は母が一緒だが…)。
前に来た時とたぶん同じ席に案内される。よく覚えていないけれど、目の前に貼ってある色紙も変わっていないのだろう。座るとすぐに福士りつさんの唄が始まった。歌も三味線も、若い人は若い人の、年配の人には年配の人の、それぞれにしか出せない味があるように思った。
「じょっぱり」を飲みながら、貝焼き、げそを焼いたの、みずやふきを食べる。
母は私と違ってコミュニケーション能力が高いので、二人で旅行すると周囲の人との交流が多くなる。今回も隣のサラリーマン二人と話が盛り上がった。
外に出ると震えがくるほど寒かった。

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