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2008.12.21(日)

長崎(浦上)


疾風はうたごゑを攫ふきれぎれに さんた、ま、りぁ、りぁ、りぁ、
葛原妙子(『朱靈』より)


カーテンを開けると、雨がしとしと降っていた。
二日間お世話になったホテルをチェックインし、またまた荷物をコインロッカーに預けると、路面電車に乗る。浜口町で下車。傘をさして原爆資料館に続くゆるやかな坂道を登る。
このあたりの道は広くてきれいに舗装されていて歩きやすいと思い、一瞬置いて、一から造り直したからなのかと気づいた。かつてあったものは、あの1945年8月9日にすべて焼けてしまったのだから。

■長崎原爆資料館

公式サイト




「平和の母子像」

1996年に建て直された、比較的新しい建物である。バリアフリーに配慮した広い展示室内では大量の資料や遺品が展示されている。
飴のように溶けたロザリオがある。
石のようになった石鹸がある。
六本のサイダーの瓶が溶けて互いにくっつき、現代美術のオブジェみたいになったものがある。
熱線を浴びて一瞬のうちに消え去り、影だけが残された人の写真。彼は自分が死んだことに気づいているだろうか。

長崎に投下された原子爆弾「ファットマン」の構造についての説明があった。
広島に投下された「リトルボーイ」はウラン型だったが、「ファットマン」はプルトニウム型。なぜ違う種類の原爆を使ったのか。その効果の違いについて実験したかったのではないかと疑いたくなる。
原爆を搭載したボックスカーにはえらくファンシーな絵柄が描かれていた。羽根の生えた可愛らしい車の絵。悪趣味を通り越してグロテスクだ。大量殺戮兵器を積んだ飛行機にこんな装飾を施すセンスにぞっとする。

私の近い身内に戦争で死んだ者はいない。田舎だったから空襲もほとんどなかったようだし、南方に出征した祖父もシベリアに抑留された大叔父も無事に復員した。先の大戦は私にとってほとんど他人事といっても良いくらい遠い出来事だ。
でもそれなら今自分が覚えているこの怒りはいったいなんなのだろうと思う。義憤? それとも愛国心というやつ? 
キリシタンの迫害と殉教については、歴史上の出来事としてある程度客観的に眺めることができる。でも原爆は私にとってさえ生々しい「記憶」であって、まだ「歴史」にはなっていないのだ。戦後30年以上経って生まれた私でもそう思うのだから、実際に体験した人たちが今なお苦しみ続けているのは当然だろう。

しかしここでもうるさい団体と一緒になってしまってすごく嫌だった。私の親くらいの年代の人たちだったのだが、
「ヨシダのおばさんがさー アハハハハ」
ヨシダのおばさんって誰だよ!
蹴飛ばしてやろうかと思った。
原爆資料館と平和公園は長崎ツアーのルートには必ず組み込まれているようだが、それも善し悪しだと思う。興味のない人まで入ってきてしまうから。無理に興味を持てとは言わない。ただ、静かに見られないのなら外で待っていてほしい。

展示室の終わり近くに、被爆した人たちの手記が展示されていた。その中のひとつ、被爆当時5歳だった辻本一二男さんという方の詩が印象的だったのでここに転記する。

ぼくはいま 山里小学校4年生だ。
運動場はすっかり片づいている。
友だちはここでたくさんの子供が死んで焼かれたことを知らない。

ぼくはふっとあの日のことを思い出す…
お母さんを焼いたその所にしゃがんで、
そこの土を指でいじる。
竹で深くいじると、黒い炭のかけらが出る。

土の中にボーッと
お母さんの顔が見えてくる。



■原爆公園(原爆落下中心地)

爆心地には黒い碑が立っている。
1945年8月9日午前11時2分、この地点の上空で原爆が炸裂し、松山町一帯は一瞬にして壊滅、防空壕の中で遊んでいた9歳の女の子一人を除いてすべての住民が即死した。
他の観光客の後に続き、私もこの碑に手を合わせた。たった一人生き残った女の子がその後どうなったのか、そのことがやけに気になった。
手前は移築された浦上天主堂の遺構。ここにもねこがいた。


■平和公園


「平和の泉」越しに平和祈念像を望む


 のどが乾いてたまりませんでした。
 水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました。
 どうしても水が欲しくて
 とうとう油の浮いたまま飲みました


平和の泉の石碑に刻まれている言葉。「あの日のある少女の手記から」とある。この泉に豊かな水がたたえられているのは、骨も残さず焼き尽くされた人々、火傷を負い水を求めながら死んでいった人々のため。

周辺に立ち並んでいるのは、1980年代に世界各国から贈られた平和を祈念するモニュメントだという。
各国の厚意に感動しながらひとつひとつ見ていったのだが


ソ連


チェコスロヴァキア


東ドイツ



中国


ブルガリア

これ、旧東側の国ばかりだ。そう気づいた瞬間、心が冷えた。
原爆を投下した国はアメリカ、言うまでもなく旧西側のドンである。戦後、ソ連をはじめとする東側の国々はアメリカと激しく対立していた。
誤解のないように急いで付け加えると、これらの国々が長崎に寄せた追悼と、平和を祈る気持ちに嘘はないのだろうと思う。でも、どこかにアメリカを批判、あるいは牽制するような意図も含まれていなかっただろうか。
私が子供の頃、第三次世界大戦が起きるとしたらそれはアメリカ対ソ連の戦い以外に考えられなかったし、その時は原爆とは比べ物にならないほどの殺傷能力を持つ核兵器が使われて、世界は滅亡するだろうと本気で思っていた。「米ソによる核戦争」は今の北朝鮮のテポドンと同じくらい、いやそれ以上の脅威だった。
核の恐怖を伝え、平和を願うこのスペースに、東西冷戦の痕跡を見たのは皮肉としか言いようがない。
それにしてもこれらの像(中国は違うけど)、分かりやすすぎるほどのプロレタリア芸術路線だ。社会主義国家が消滅しつつある今、これも時代の貴重な生き証人となっていくのだろう。

被爆当時、ここには長崎刑務所浦上刑務支所があった。
原爆によって一瞬のうちに破壊され、受刑者、職員、その家族あわせて134名が全員即死した。発掘された基礎部分と、コンクリートの塀だけが残っている。

毎年8月9日に行われる慰霊祭のニュースでは必ず映し出される、北村西望作のあまりにも有名な像。
写真をとっていると、隣でツアー客に説明しているガイドさんの言葉が漏れ聞こえてきた。
「……肩から腰に向かって流れる布は性別を曖昧にし、また、長い髪はキリストを、額のほくろは釈迦を思わせ、男でも女でもない、どの宗教にも属さない人物像となっております」
はじめてじっくり眺めた平和祈念像の顔は穏やかで、わずかに微笑しているようにも見える。


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